100年前の復興、面影残る「奇跡的なまち」 兵庫・豊岡で北但大震災後の建築群を再調査、農漁村にも焦点

北但大震災の後に建てられ、今も残る「復興建築」。地域の歴史を伝える証人だ=豊岡市内

 1925(大正14)年の北但大震災後、現在の兵庫県豊岡市域に建てられた「復興建築」群の再調査が進んでいる。関東大震災の被災地をはじめ、戦前の復興建築はその多くが戦災や再開発で失われており、現存する豊岡の建築群は極めて貴重。調査を進めると、市街地のビルばかりでなく、農漁村の木造家屋などにも震災の教訓を踏まえた防災仕様が施されていることが分かった。(阿部江利)

 調査にあたっているのは、関西学院大学(西宮市)の石榑督和准教授(37)=建築史、地元でまち並みの保存や調査に取り組む「豊岡まち塾」、豊岡市文化財室の3団体。共同プロジェクトとして2022年春からスタートした。

 北但大震災の復興建築はこれまで、震災後に建てられた学校や役場などの公共施設のほか、兵庫県の補助を受けた耐火の鉄筋コンクリート(RC)造の民間住宅48棟とされてきた。また甚大な被害のあった豊岡市街地と、城崎温泉街に研究は限られてきた。

 石榑准教授らは、まず調査対象の範囲を広げることを検討。都市部と同じように大火に見舞われた漁村の津居山地域、内陸部の飯谷地域にも足を運び、防災を意識して建てられた木造住宅なども「復興建築」として調べることにした。市域全体で、発生から11年間に建造された建物とその分布も調査する。

 これまでの調査では、耐火RC造の民間住宅48軒のうち35軒が現存していることが判明。県の補助を受けずに自力で防火仕様にした商家などの木造建築物も少なくとも数十軒残っていることなどが確認された。津居山、飯谷地域で被災後に再建されたまち並みや住宅でも、区画整理の実施や土壁の使用で耐火性を強めたり、筋交いを入れて耐震性を高めたりするなど当時の防災・防火対策がみられるという。

 豊岡市の復興は、北但大震災の2年前に起きた関東大震災の復興計画を参考に進められたとされる。しかし、首都圏では戦中の度重なる空襲やその後の再開発で、震災復興の面影は消えてしまった。

 石榑准教授は「まち並みの近代化を考える上で重要な建物が、戦災や災害を乗り越えて非常に良く残っている奇跡的なまち」と豊岡の価値を指摘する。

 一方、多くの復興建築には今も住民が暮らしているが、建物の老朽化が進んでおり、保存の在り方は大きな課題だ。

 豊岡まち塾の松井敬代副塾長(68)は、まち並みも文化であることに触れ、「住み続けることもまた(震災を)語り継ぐこと(になる)」と強調。石榑准教授は「(再来年の)震災100年を控え、復興建築を未来にどうつなげていくかを考えるきっかけになれば」と話している。 【北但大震災と復興建築】1925年5月23日午前11時9分、豊岡市北部を震源とするマグニチュード(M)6.8の地震が発生。同市域の死者は420人、負傷者は792人。全壊・全焼は約2540戸。市街地復興では官公庁が中心部に集められ、耐火のための鉄筋コンクリート(RC)造の建物が多く整備された。

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