西日本のビッグバンドに交流の場を 神戸で産声上げた定期演奏会が40回、育ての親の熱き思い

過去のコンサートのプログラムや写真を前に語る港良一さん=神戸市中央区東川崎町1、神戸新聞社

 神戸で産声を上げ、今では国内有数のジャズ・コンサートとなった「西日本アマチュアビッグバンド連絡会(NABL)」の定期演奏会は今年6月で40回目を迎えた。社会人バンドが切磋琢磨しながら親交を深める。そんな温かな場の仕掛け人は港良一(79)=兵庫県明石市。連絡会理事長として大切に育ててきた。

 温厚な人柄で知られ、「私には、ジャズの知識も技術もないのに」と、あくまで謙虚。「それでも長くやってこられたのは『技術の向上と親睦』という理念を曲げず、新しくても古くても、技術力も関係なく、バンドを公平に扱ってきたから」。近畿をはじめ中国、四国など各地の仲間や指導してくれたプロ奏者らに感謝しながら、心に秘めた情熱と行動力、交渉力で、道を切り拓いてきた。

 子どものころから、責任感が強く、いつもクラスや部活のまとめ役だった。香川県・小豆島の高校を卒業後、働きながら夜間に近畿大学で機械工学を学び、学内の音楽団で活動。ビッグバンドでテナーサックスを吹いていたが、ここでも監督からコーチに指名された。

 「まとまりはよく、後輩がかわいくて仕方なかった」と港。だが「私に技術はなく、下級生がついてきてくれるか心配だった」。そこで、後にプロビッグバンド「アロージャズオーケストラ」で活躍するドラマーに頼みこんで実演してもらったこともあった。

 これが15~20人程度で編成するビッグバンドに打ち込む原点になった。「何かをみんなで作り上げていくのが好き。全員で一つのサウンドが出せたとき、ぞくっとした思いがします」と目を輝かせる。

 大学卒業後は神戸で会社勤めなどをしていたが、20代後半、明石駅前の音楽ライブを楽しめる飲食店「ボッサリオ」で、ジャズへの思いを再燃させる出会いがあった。トランペッター、伊藤隆文(故人)。「彼の音は人間的で温かく心地よかった」と港は振り返る。やがて神戸のジャズライブハウスに連れて行ってもらううち、そこで演奏されていたディキシーランドジャズの良さも再認識した。

 1974年、ボッサリオの常連客らと「明石メイト・ジャズ・オーケストラ」(現・メイトジャズオーケストラ)を結成。「仲間(メイト)」を大切にする思いで名付けた。

 夢はふくらんだ。関東ではジャズのアマチュアビッグバンドが盛んに交流していたが、西日本ではほとんどなかった。港は関西や中国地方を駆け回り「合同でコンサートをしよう」と呼びかけた。

 「いい考えやけど、実際やるのはなあ」と声をかけたバンドはみな渋ったが、しばらくしてチャンスが巡ってきた。米国のコンテストでナンバー1に輝いたカリフォルニア州立大学バークレー校のビッグバンドが演奏旅行で来日すると聞き、港は合同演奏会の目玉としてゲストに招こうと考えたのだ。

 条件は彼らの宿泊費を負担すること。港は1人で赤字を埋めてでもやり遂げる覚悟だった。思いを察してバンドメンバーが声を上げた。「みんなで1万円ずつ出そう」。「明石メイト-」の約20人が気前よく払ってくれた。「今でも忘れられんですね」と港は大切な思い出として語る。

 神戸や明石での会場探しも難航したが、目当てのホールを先に押さえていた会社(サンテレビジョン)にかけあうと、譲ってもらえた。81年6月28日、ポートアイランドの神戸国際交流会館に7バンドが集まり、連絡会として初のコンサートが幕を明けた。

 トップバッターはもちろん「明石メイト-」。グレン・ミラー楽団の代表曲「イン・ザ・ムード」で会場を熱くした。 =敬称略=(小林伸哉) 【みなと・りょういち】1944年、香川県・小豆島生まれ。兄が神戸で営む鉄工所で働き、イベント企画会社に転職。退職後しばらくは模型制作の仕事の傍ら、ジャズ振興に尽力。明石に移る前、長く神戸で暮らした。「ジャズの街神戸」推進協議会メンバーでもある。

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