ノムさんに「あれ」と命じられて編み出したオリジナル魔球・高津臣吾さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(22)

1993年10月、日本シリーズ第4戦で西武の田辺(手前)を三振に打ち取り、ガッツポーズで喜ぶ高津臣吾さん=神宮

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第22回は高津臣吾さん。日米通算313セーブの名クローザーは緊張を強いられるマウンドが数え切れないほどあったはずです。プロ野球選手であれば、究極のしびれる場面をぜひ経験してほしいと力説しました。(共同通信=中西利夫)

 ▽狙ったところにはいかない。それがコントロールというもの

 アンダースローにしたのは高校1年の春です。当時は他にスーパーエースがいて、同じような投げ方で勝負もできなかったので思い切ってアンダーにしました。大学に入ると、そのレベルに見合ったスピードや変化球が投げられず、生き残るために自分を変化させました。ちょっと腕を上げて球速を出して、という感覚で。
 大学はすごく環境が厳しかったです。100人ぐらい部員がいて、本当に練習させてもらえるのは30人とか40人。練習に参加するため、打撃投手をさせてもらうために、どうすればいいか。そんなところからスタートしました。1日に何百球と投げるので、その時は本当にしんどかったけれど、無理やり投げたことが実になりました。今はそんなことをしたら駄目ですけど、歯を食いしばってやって良かったなと、後になって思いました。大学でずっと投げ続けたことは無駄じゃなかったです。
 速い球を投げられるに越したことはありません。どんな球よりも速い球を投げるのが一番の武器でしょう。ただ、変わらないのはストライクゾーン。究極のコントロールは底がないというか限界がない部分なので、そこを突き詰めた方がいいのかなと僕はずっと思っていました。スピードは限界があるし、変化球もその人の体の使い方で投げられたり投げられなかったりします。制球力は磨けば、どんどん付いていくもの。そこで勝負していこうと思いました。

1997年10月、日本シリーズ第3戦で救援し、勝利投手になった高津臣吾さんは古田敦也さんと抱き合って喜ぶ=神宮

 ほとんど狙ったところにはいかないですよ。バケツぐらいの大きさの枠であれば、すごい確率で投げられるかもしれないけれど、5円玉を狙って投げると、めったに当たらないでしょう。まあ、それがコントロールだと思います。ストライクゾーンには、ほぼ投げられます。10球投げたら悪くても8、9球は。ただ、本当の隅、ゾーンの角に投げられるのは2球、良くて3球。問題は全力で投げて、そこにいくかどうかです。プレッシャーがかかるとコントロールも乱れます。いいところにいったら勝てますし、狙ったところに投げられなかった球、もしくは甘いところにいけば打たれます。そういうところは割り切って投げていました。要は確率の問題です。
 僕はピンポイントで狙わないと、コントロールがつけにくいです。捕手は的が大きい方がいいとよく言われますが、僕だったら的が小さい方が、そこにフォーカスできます。的が大きいとストライクゾーンがぼんやりしてしまって、ピンポイントにはいきにくくなるのです。本当に角を狙わないと、そこに投げられないので、古田敦也さんには小っちゃく構えてくれと、ずっと言っていました。

2000年9月の阪神戦で通算150セーブを達成した高津臣吾さんはファンの声援にこたえる=神宮

 ▽思い切り腕を振って遅い球を投げる達人技

 野村克也監督にシンカーを投げろと言われたのは1992年の秋季キャンプ。そこから取り組み始めました。野村監督は「あれを投げろ」と言っただけです。(同じ年の日本シリーズで)西武の潮崎哲也に、あんな遅い球で抑えられたので、すごく印象に残ったのでしょうね。思い切り腕を振って100キロの球を投げるというのはすごく難しくて、おそらくほとんどの人ができないと思います。腕を振ってスピードを出さない方法をいろいろと考えました。握り方だったり、腕の使い方、肘の抜き方だったり。何種類も試して、これは使える、これは駄目とやっていき、自分に合ったオリジナルの握りや使い方をつくっていきました。
 中指の外側を縫い目に引っかけ、中指と薬指の間から抜く。口で説明するのが難しいですが、深く握ってスピンをかけるイメージです。フォークボールは指で挟んで回転をなくして落とすんですけど、僕のシンカーは回転で落とします。カーブやスライダーと同じです。落ちる系の球ですが、フォークではなくチェンジアップに似ているかもしれません。(球の軌道によって)打者の目線や体が、ふっと上に1回上がる感覚があると、より効果的。ふっと上がる時点でタイミングが狂います。遅い球が来たと思って振りにいって、もっと遅かったというのが理想です。僕は変化の動きは大きくなく、スピードの変化がすごく大きかったと思います。奥行きというか、できるだけベースの前に(打つポイントを)引っ張り出すのです。

2004年4月のヤンキース戦で大リーグ初登板し、力投する高津臣吾さん=ヤンキースタジアム

 速いシンカーは低めの真っすぐが来たと思わせて振らせて、あっ、落ちていたというのが理想。2種類を使い始めたのは、プロ入り4、5年目ぐらいです。速いのを後に習得しました。遅いシンカーを何かちょっと打たれだして、変化は小さくていいから真っすぐに近いのを考えていきました。シンカーは8割はいかないけれど、半分以上は投げているでしょうね。真っすぐとシンカーで9割以上です。
 右肘はめちゃくちゃ痛かったですよ。すごく無理をしたし、体に負担がかかったと思います。26、27歳ぐらいから慢性的に痛かったです。手術は1回も受けていません。勧められたけれど、手術すると自分のポジションがなくなってしまいます。休むのが嫌だったので、手術はしたくなかったです。薬を飲みながら、注射を打ちながら投げました。変な意味じゃなくて、注射がめちゃくちゃ気持ちいいんです。肘に水がたまっていると伸びたり曲げたりが難しいけれど、その水を注射器で抜いて、針だけ残して本体を変え、消炎剤を入れていくのです。すると、潤滑油みたいになって、すごく動きが良くなり、めちゃくちゃ気持ちいいんです。そんなことをずっとやっていました。(試合のない)毎週月曜日は常に病院にいました。

2008年6月、韓国プロ野球のウリに入団し、ユニホーム姿で笑顔の高津臣吾さん=ソウル市内

 ▽重圧の大きな、しびれる試合を経験すると…

 極限状態で力を出す方法ですか? ちょっとの緊張と、ちょっと興奮するのと、あとはしっかり冷静になること。熱い部分もないといけないし、ちょっとプレッシャーも感じないといけないと思います。無で投げるというのも無理だし、超リラックスして投げるのも無理だし、もちろんがちがちになって投げるのも、沸騰するぐらい熱くなって投げるのも無理。全て思考する頭の中もバランスです。
 バッターは何を狙っているのか、どの球でカウントを取って、どの球で仕留めて、どこに打たせたいのかをしっかり分析してマウンドに立てるかどうか。そこは古田さんが導いてくれる役割でした。結構カリカリして投げていくところを、ここは1球ボールにしようかとか、逆にここは真ん中でいいよとか言ってくれたのは、マウンドですごく役に立ちました。もう一回冷静になって、ああそうか、と考え直すことができて、すごく助けられました。

2022年9月、セ・リーグ2連覇を果たして笑顔を見せる高津臣吾さん(中央)=神宮

 いろんなプレッシャーがかかるところ、ビッグゲームで自分が果たしてどんなピッチングができるのか、どんな気持ちでグラウンドに立つのか。プロに入ったら、日本シリーズじゃなくていいんですけど、そういう究極のしびれるところでプレーしてほしいなと思います。なかなかうまくはいかないので、それをどうやってコントロールして、自分の100%に近いパフォーマンス、持っている実力を出せるのかというのは、せっかくだから経験してほしいですね。それがあるから後につながってくると思いますし、考え方も変わってきます。それを経験したら、ほとんどのことが「大丈夫」にもなります。

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 高津 臣吾氏(たかつ・しんご)広島工高―亜大からドラフト3位で1991年にヤクルト入団。3年目で抑えに定着。最優秀救援投手に4度輝き、4度の日本一に貢献した。2003年8月に名球会入り条件の通算250セーブに到達。04年に米大リーグへ移籍し、2年で計27セーブ。韓国、台湾、日本の独立リーグでもプレーし、12年に引退。プロ野球の通算286セーブは歴代2位。20年からヤクルト監督。68年11月25日生まれの54歳。広島県出身。

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