偽りのない、飾らない人生 故松尾正信さんの詩集 神戸高出身、村上春樹さんと同級、誰もが魅了され…

松尾正信さんの詩集(手前)と、原稿やスケッチ、愛用のカメラ=神戸市東灘区

 〈すきな事をしながら日が暮れて、此の一日一日の身の内外の有様を書きとめたと思って、さらに白紙に向かう〉(「たまて箱」)-。神戸出身の詩人・松尾正信さんは、そんなふうに膨大な作品を書き残し、72年の人生の幕を一昨年に閉じた。生前に思い描いていた詩集は今年5月、学生時代の友人らの手により完成。古里・御影と阪神タイガースを愛し、自らを鈍行列車になぞらえた味わい深い人生が、一つ一つの作品から浮かんでくる。(田中真治)

 〈神戸の御影は/わたしの故里である。/ぼくの育った所です。〉(「至福」)

 正信さんは、阪神御影駅前で薬局を営む家に生まれた。父親の恒雄さんは神戸女子薬科大(現神戸薬科大)教授で、文や絵をよくした。正信さんも宮沢賢治や中原中也を愛読し、神戸大付属住吉中学時代には早くも、「物書きになると日記に書いている」と、二つ違いの弟で元神戸大工学部准教授の成信さんは話す。

 〈この電車に乗って球場へ行く、/ホームに差す陽に/兄弟の縦縞ユニフォームが 浮かび上がる〉(「阪神御影、五時十六分」)

 物心ついたときからの虎ファン。神戸高校では野球部に入り、チームメートには後の岩波文庫編集長・塩尻親雄さんがいた。正信さんは180センチを超える偉丈夫で、予選の控え選手ながらベンチ入りするも、半年ほどで文芸部に転じた。

 〈隣りの部屋は新聞部で、キャップになりたての村上春樹が「俺らの先輩には小松左京が居る」と云っていた。二年生になったら執行部の書記長やりだした当方は樺美智子が居ると云っていた。〉

 成信さんによると、お互いの雑誌や新聞に書き合う仲で、大学も同じ早稲田。「小説を書こうと思う」と下宿を訪れた村上さんに「書いたらええやん」と勧めたこともあったという。映画監督の故・鈴木清順さんとは「芸術の先生」として親交が深く、代表作の誕生に一役買った。

 〈敬愛する作家の短編小説「サラサーテの盤」を熟読玩味の上先達におすすめして「ツィゴイネルワイゼン」が出来上がるキッカケとなったが、その折も百閒先生はこっちの方が結局ええよなあ、と、試写会のトイレで思ったりしたもんだ。〉(「おなじアホなら」)

 「こっち」とは、元祖乗り鉄・内田百閒の紀行文学「阿房列車」シリーズだ。東京住まいを「流寓」と呼んだ正信さんは「出歩いて人とつながることが生きる意味みたい」(成信さん)な人で、母親の介護が必要になると、鈍行列車での帰郷も一層頻繁になった。車中の読書や見知らぬ人とのおしゃべり、なじみの店や同級生との再会はそのまま詩や絵や写真となった。

 〈原稿も気持ちもあちらこちらに散らばっている。故里と流寓の住処が同じ様相で、渦巻く紙の群れの中で紙片を拾い読もうとしては、溜息をついたり、寝ころがって仕舞うのである。〉(「移動日」)

 手書きの紙片は「スマホサイズの写真詩画文集」にまとめるつもりだったが、突然の死が襲った。

 成信さんは1年半をかけて原稿を入力する。その編集を、兄が頼りにしていた塩尻さんに託した。

 発行元の「ぼっと舎」は、NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に取り上げられた、芦屋在住の校正者・大西寿男さんのひとり出版社。偶然にも、塩尻さんとは古い知り合いで「不思議な縁を感じる」と引き受けてくれた。

 挿画選びや、御影公会堂で出版記念会を開く支度は、神戸高の同窓生が買って出て、村上春樹さんにも出版社を介して連絡してくれた。メッセージの希望は実らなかったが、死を悼む言葉が伝えられた。村上さんが母校からのアプローチに返信するのは、これまでなかったことだという。

 記念会には、およそ90人が遠方からも訪れた。偽りのない、飾らない人生に、誰もが引きつけられた。

 成信さんは振り返る。

 「『皆さんもこういう生き方がしたいんですよね』と同級生の方に尋ねたら、全員大きくうなずかれた」

 誰のまねでもない言葉の束を、兄の望んだ形で多くの人に届けたい-。今回の詩集は「1」。続刊も予定されている。

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 購入希望は松尾成信さん宛てにメール(masashige525@gmail.com)で。2千円。

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