わがまちの変遷 那須烏山・山あげ祭 継承へ人手確保急務

昭和初期ごろ、祭りを盛り上げた若衆団ら。屋台装飾から仲町とみられる(那須烏山市提供)

 おはやしや三味線、若者の威勢よいかけ声が一日中、市街地に鳴り響き、一年で最も那須烏山市が“熱く”なる3日間が目前に迫る。21~23日に行われる山あげ祭だ。

 祭りの祭事「烏山の山あげ行事」は1560年、烏山城主那須資胤(なすすけたね)が疫病防除や五穀豊穣(ほうじょう)を祈願し、牛頭(ごず)天王を烏山に勧請した際の祭礼の奉納余興が由来とされる。本県の150年をはるかに超える460年以上の歴史を持つことになる。可動式舞台で野外歌舞伎を繰り広げるようになったのは江戸時代とみられる。

 1600年代には、祭りを開催する当番町を複数の町が交代で担う輪番制が始まったとされる。そして県誕生から約30年後の1902年。鍛冶町から分離して日野町が生まれ、現在の6町による輪番制が整った。

 烏山の夏の風物詩として定着しきった79年、県内初の国重要無形民俗文化財に指定される。祭りの中核となる住民団体「烏山山あげ保存会」の三森文徳(みもりふみのり)会長は「当時は各町とも、運営の中心となる若衆を自前で組織でき、『うちの町が一番だ』と競い合うエネルギーがあった」と振り返る。

 しかし、高齢化や時間の融通が利きやすい自営業者の減少が急速に進む。近年は祭りの担い手確保が容易ではなく、約10年前には活動を休止する若衆団も出た。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産にも登録された一大行事。人口減少が進む那須烏山市にとって、毎年の祭りの開催は重要課題だ。三森会長は「公演数の見直しなど祭りのやり方を含め、広く人手を確保する工夫をしていかなければならない」と危機感をあらわにする。

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