「川の水がザワザワ揺れた」北但大震災から98年 遠のく激震の記憶、伝承の歌を知る高齢者も今や

北但大震災の発生を伝える1925年5月24日付の神戸新聞1面。「震央地但馬一帯被害惨烈(さんれつ)」の見出しで惨状を報じた

 ♪たいしょう じゅうよねん はるごがつー にーじゅうさんにちの まひるなかー

 長調の明るい調べで歌われるのは「北但大地震の唄」だ。歌詞は「起こる起こる大地震/哀れし北但大地震」と続く。震災から間もない時期に作られたとみられ、約20年前までは、口ずさめる高齢者がいたようだ。

 弘道小学校(兵庫県豊岡市出石町寺町)の古橋衛教頭(52)は約20年前、港東小(現港小、同市気比)で防災担当だった時に歌の存在を知った。以来、担任する学級で教え子に歌ってもらい、被害を伝え、「どれだけつらい思いをされたか分かるかな」と問いかけてきた。「歌えば、日付が覚えられる。伝えるという点で、歌の力は大きいと思います」

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 豊岡市街地や城崎温泉街を焼け野原にした北但大震災は、今年で発生98年となった。5月末時点で、同市内の100歳以上は98人。地震を直接体験し、震災を「思い出せる」世代はごくわずかだ。経験者から直接話を聞いた人も限られる中で、記憶や歴史を掘り起こし、その時々の言葉で伝え直す努力が重ねられてきた。

 豊岡市田結の大島克幸さん(74)は、父寿雄さん(享年91)、母睦さん(同101)が震災の経験者だ。寿雄さんは当時1歳半くらいで、地震で全壊した自宅の下敷きになり、一命は取り留めたが、土ぼこりが目に入ったせいか、片目に障害を負ったという。睦さんは「川の水が、バケツを激しく揺すったようにザワザワ揺れたのを見た」と話していた。

 大島さん自身、両親から詳しく震災の話を聞いたことはない。阪神・淡路大震災では神戸・長田でボランティアをし、焼け跡で声をかけた男性が「娘が家の下敷きになり、遺髪を取るのが精いっぱいだった」と話したのが忘れられない。

 田結地区は98年前、救助より消火を優先し、火災による犠牲者を防いだ「田結の奇跡」で知られる。大島さんは、当時の被災地を調査した地震学者の手記を地元住民が保管していたのを託されて精読。北但大震災を乗り越えてつながった自分の命、阪神・淡路の焼け跡での記憶、いろいろな出来事が一つにつながり、同地区での教訓を地域外にも発信している。

 同地区では今年も追悼行事「千度参り」で震災や教訓を伝えた。「防災が必要であり続ける限り、続けるものだと思う」と話す。

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 同市大磯町の沖野龍之さん(71)も、亡くなった父良雄さんから「背に負われ、田んぼの水が激しく波立つのを見た」との証言を聞いている。

 元小学校教諭の沖野さんは、県但馬教育事務所で防災教育を担当した約20年前、被災小学校に残された学校日誌を集め、誰でも読める形に書き下して冊子にまとめた。阪神・淡路大震災に「子どもたちの命を守り、生きる力を身に付けてもらうにはどうすればいいのか」と、足元の災害を掘り起こす必要を感じたためだ。

 歴史を調べ、相次ぐ災害に思うのは「歴史は繰り返す」ということだ。親や子を助けられず悲しむ姿、被災から復興への道のり、子どもの笑顔に地域が元気づけられること。「過去は過去として学び、何より次の災害で命を守れる力につなげなければ」と話す。(阿部江利)

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 北但大震災が発生した1925(大正14)年から丸100年となる2025年の5月23日まで、2年を切った。世紀の節目を前に、震災の実相と教訓を追う。

 【北但大震災】 1925(大正14)年5月23日午前11時9分57秒、円山川の河口部付近を震源に、マグニチュード6.8の地震が発生。当時の最大震度6が観測された。揺れで多くの建物が倒壊した上、昼食準備の時間帯とも重なったことで各地で火災が発生。城崎温泉街をほぼ全焼したほか、旧豊岡市街地も大部分が焼かれた。豊岡市によると、死者は420人(うち豊岡が136人、城崎が283人)。建物被害は全焼が1712戸、全壊が826戸。

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