「一人じゃない」遺児支え合い 神戸レインボーハウス、阪神・淡路大震災以外の受け入れ20年

ぬいぐるみがたくさんある「おしゃべりの部屋」=神戸市東灘区本庄町1

 阪神・淡路大震災の遺児支援のため、神戸市東灘区に開設された「あしなが育英会 神戸レインボーハウス」。2003年からは震災だけでなく病気や自死、交通事故などで親を亡くした子どもたちも受け入れてきた。それから20年、施設を利用した子は305人に上る。「一人じゃない」。心の支えになったのは、一緒に泣いて笑ってくれる仲間とボランティアの存在だった。(中島摩子)

 あしなが育英会は阪神・淡路大震災の直後に被災地入りし、ローラー調査で573人の遺児を確認。4年後の1999年、ケアの拠点としてレインボーハウスを開設した。思いを語り合う「おしゃべりの部屋」、創作活動に打ち込める「アートの部屋」などを備え、定期的な集いやイベントには多くの遺児が参加した。

 子どもの成長とともにケア事業の対象者が減ってくると、2003年9月から震災以外の遺児も受け入れるように。22年度までの利用登録者は305人。親の死因は病気200人▽自死61人▽事故など44人-で、ハウスでは養成講座で心のケアを学んだボランティアの「ファシリテーター」(約520人)が寄り添ってきた。運営は多くの寄付で支えられる。

徳山洋輝さん31歳 「恩返し」、サポートする側に

 会社員、徳山洋輝さん(31)=神戸市東灘区=は父を白血病で亡くした。5歳だった。小学5年の時、母から勧められ、1泊2日の「雪遊びのつどい」に初めて参加した。

 スキーをしたり、亡くなった親のことを話したり。「親がいないって普通のことやったんや。特別不幸なことじゃない。仲間がいる」。そう感じたという。

 以来、頻繁にハウスへ。学生ボランティアや職員らがいつも遊んでくれた。「何かをしても、何もしなくてもいい場所。自然に受け入れてもらえ、とにかくおもしろかった」

 高校まではサッカーに打ち込み、大学生からはボクシングに挑戦。同時に「たくさん与えてもらった恩返し」の気持ちで、遺児を支えるボランティアになった。ハウスに顔を出すと、子どもたちが「とっくん!」と呼んで集まってくる。自分がしてもらったのと同じように、一緒にふざけて楽しく過ごした。

 大学卒業後も働きながらプロボクサーになる夢を追い続け、16年についにデビュー。昨年5月、同市長田区のアリーナで開かれた試合には、ハウスの後輩たちが来てくれた。負けはしたが、みんなの応援が何よりうれしかった。

 「卑屈にならず『ありがとう』が素直に言えるのはレインボーのおかげ。これからもつながり続けたい」

森田望奈未さん28歳 人とつながる、「私の居場所」

 今年、ファシリテーター向けにケアの手引きなどを記した冊子ができた。表紙を手がけたのは、デザイナーで大学教員の森田望奈未(みなみ)さん(28)=同市東灘区。

 5歳の時に父が自死し、小学3年からハウスを利用する。「学校では親のことをしゃべれず、疎外感があった。レインボーの集まりで初めて『亡くなりました』と言って、号泣した。涙と一緒に吐き出して、すっきりした」

 海水浴やスキーのイベントに毎年参加し、「そこでは我慢せず、わがままが言えた。おんぶや肩車をねだって、ひっついて…。好きな人たちがいて、居心地がいい居場所だった」。震災遺児の年上の女性とは「血のつながっていない姉妹」と言うほど親しくなった。

 大学時代は東日本大震災の被災地に通った。つらい時、思いっきり体を動かす大切さはよく知っている。遺児たちと「靴下の裏が破れるぐらい走り回った」。

 手がけた冊子の表紙にはレインボー(虹)を空でなく、地面にうねるように描いた。鮮やかな花や大樹もある。「レインボーは私の基盤であり、栄養分であり、道。そこから思いや人の縁がつながっていった」と森田さん。つらいことがあっても、絵にある花や木のように、みんなが伸び伸び育っていけるように。そう願っている。

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