においの記憶

 24日が忌日だった芥川龍之介の短編「世之助(よのすけ)の話」で、主人公が昔語りをする。〈手習い(習字)に行くと、よくいたずらっ子にいじめられる。それも、師匠に言いつければ、後の祟(たた)りが恐ろしい〉…▲誰にも言えず心細かったが、その思いも大人になるとすっかり忘れた。それでも墨のにおいをかげば、子どもの頃の心持ちがふとよみがえる-と独白は続く▲〈大抵な事が妙に嗅覚と関係を持っている〉という世之助の言葉に、うなずく人も多いだろう。目で見る光景、耳に届く音で昔日の記憶がよみがえることもあるが、においはことの外、記憶との結び付きが強い気がする▲夏草のにおいや潮の香り。ビニールの浮輪の栓を抜いた時に鼻先をくすぐる空気。蚊取り線香の煙…。遠い昔の真夏へと、一瞬にしてさかのぼるにおいの記憶は人それぞれだろう▲このところ列島の所々で「危険な暑さ」が続発し、新型コロナの感染者数は昨年12月の「第8波」の頃と同じ水準とみられる。過去3年の夏と同様に…とは言わないまでも、外出や旅行がためらわれる方もいるに違いない▲〈子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる〉。昔のにおいに触れる思いを、世之助はこう語る。においが呼び覚ます記憶の旅をして、思い出に甘える夏も一興だろう。(徹)

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