「川之江くん?」「いえ、川之江高校です」無名扱いされた高校が甲子園4強入り 今夏、21年ぶりの聖地へ

午前10時1分に始まった試合は、午後1時を回っていた。とにかく暑いが、試合はもっと熱かった。

第1シード「今治西」とノーシードから6試合目の「川之江」。愛媛大会の決勝戦は9回を戦い終えて4対4。愛媛県松山市の坊っちゃんスタジアムは、延長戦に突入した。

そしてタイブレークの延長10回ウラ、川之江は1アウト満塁から、1番奥村のライト線を破るサヨナラの一打で3時間12分の激闘にピリオドを打った。

そして、その瞬間からスポットライトを浴び始めたのが21年前の「2002年夏」だ。

無名だった川之江ナイン 甲子園4強入り

「え~と、川之江くん?」 「いえ、川之江高校です」

2002年8月8日、夏の甲子園の開会式当日の朝。開会式の入場行進を前に、球場の外周では、代表校の選手たちがチームごとにかたまり待機していた。

当時、チームの密着取材で甲子園入りしていた私は、選手達にマイクを向けては「どんな行進をしたいですか?」などと昂る思いを聞いてまわっていた。

そんな時だった。ある高校野球番組のリポ―ターがかけたのが先の一言…。

この12日後、川之江ナインは4強入りを果たし、大歓声を浴びながら準決勝の舞台にいた。

この夏、全国4163校の頂きにはあと一歩届かなかったが、189センチの右サイド、鎌倉健投手のスライダーはプロのスカウトを唸らせ、キャプテン三好の一発に甲子園はどよめいた。

結局、川之江は「センバツ優勝の報徳学園」を破った浦和学院に2回戦でサヨナラ勝ちを収めると、3回戦で桐光学園、準々決勝で遊学館と、3試合連続1点差ゲームを制すると、準決勝では四国勢対決、初優勝した高知の明徳義塾に大敗したものの、地方の県立高校の快進撃には全国の高校野球ファンから温かい声援が贈られた。

そんな「21年前の夏」で思い出すエピソードがある。

「この子たちは本当にいい子」素振りをしていた場所で毎朝、清掃活動

当時、甲子園大会に出場する愛媛県の代表校の定宿は、兵庫県尼崎市にある旅館「尼宝館」(にほうかん)。多くの球児たちを温かく支え続けてきたその63年間の歴史は、愛媛の高校球史の1ページといっても過言ではない。

また、地元テレビ局や地元新聞の取材班たちも、甲子園代表校取材の度に尼宝館を訪れては、勝利した試合翌朝の選手たちの表情をリポートしたり、時には大部屋で大盛飯をかきこむ選手達の様子を取材したりと、大変お世話になった旅館である。

そして21年前の夏、旅館を訪れた私に「女将の田中美佐子さん」は小声でこう一言。

「この子たちはね、ほんとうにいい子たち」

聞けば、川之江ナインは、旅館内ではもちろん、夕食後、素振りをするために訪れていた最寄りの「出屋敷駅」前で毎朝、清掃活動に取り組んでいるという。

「挨拶もしっかりしているし、もう近所の人からもね、評判なの!」

そう言って目を細める田中さんの嬉しそうな表情は、今でも瞼に浮かぶ。その夏の甲子園大会終了後、川之江高校野球部には兵庫県から感謝状が贈られた。

チームを率いた重沢和史監督

そんなチームを率いていたのは、重沢和史監督。2002年夏、チーム史上初の4強入りを果たした闘将は、準決勝敗退後、甲子園のインタビュー通路で、こんな言葉を残し、甲子園を後にした。

「2週間あまり、甲子園で選手たちとともに戦うことができて、本当に幸せな2週間あまりでした」

こうして2002年の夏、一躍全国区に躍り出た川之江。愛媛大会で1997年から3連覇している「宇和島東」や2000年の「丹原」、前年の2001年夏に4強入りしている「松山商業」や翌2003年の代表「今治西」といった、当時の「県立強豪校」の一角を占めるようになった。

その後は残念ながら、再び甲子園に戻ることはなかったが、夏の愛媛大会では、04年「8強」、05年「8強」、06年「4強」、07年「4強」と結果を残し続けた。

果たして、その安定したチーム力はどう育まれたのか―。

部員50人のノックで使うボールは「1個」

こんなシーンを覚えている。

2007年、夏の愛媛大会を目前にした練習で目にした「ノック」。全部員50人あまりが守備位置についていたが、使っていたボールはたったの1個。重沢監督はノックバットを肩にかつぎ、選手たちの呼ぶ声にじっくりと耳を傾けると、おもむろに、決して強いとは言えない打球を、野手と野手の間に転がしていく。

すると、その打球に対して全員が一斉に走り出す。捕球に行く者、ベースに向かう者、そしてカバーリングに入る者…。万が一のミスを全員でカバーする意識は、完全に浸透していた。

そして判断が一瞬でも遅れた者には、重沢監督の甲高い声が容赦なく刺さる。

「一球!一球!」

合言葉は「一球に集中」。研ぎ澄まされた時間の一瞬一瞬を、今目の前の仲間と同時に心に刻み込むことで、川之江は、戦う集団としての揺ぎ無い土台を築き上げていったのである。

この2年後、重沢監督は「松山商業」に異動した。

今治西高校出身で、現役時代から指導者時代を通じ「打倒松山商業」を掲げ闘志を燃やしてきた側の人間が、チーム史上初の外部出身者の監督として、伝統の「M」のマークの帽子を被り、10年余りに渡り、陣頭指揮を取った。ただ、野球王国愛媛の象徴であり「聖域」とも言えるグラウンドに立つ背中には、決意と覚悟がみなぎり、その「1球」を追求する姿勢に迷いは感じられなかった。

21年ぶりの甲子園へ

今年、夏の甲子園に21年ぶりに戻る川之江野球部。

愛媛県の最も東に位置する高校の野球部グラウンドには、こんなプレートが強い西日を正面から受け、今も誇らしげに輝いている。

「一投一打 気持ちを込めて」第84回選手権大会 2002・8

© 株式会社あいテレビ