大村・松原地区「救援列車」 朗読やアニメなどで子どもたちに 「伝える会」の挑戦続く #戦争の記憶

平和を願うモニュメントの前で今後について談笑するメンバー=大村市松原本町、市立松原小

 長崎への原爆投下後、瀕死(ひんし)の被爆者が救援列車で運ばれてきた大村市。「松原の救護列車を伝える会」は地域の歴史を伝えようと、子どもたちに朗読劇を届けてきた。今年はアニメーション制作にも挑戦。長崎に比べ継承の取り組みの乏しさが課題とされる中、「じいちゃん、ばあちゃん話して、父ちゃん母ちゃん伝えて」を合言葉に地道な活動を続けている。
 「『痛か、痛か…。お母さんに会いたか』。夜から朝まで無我夢中で治療を続けました。手伝いに来てくれた警護団、婦人部、近所の方々も疲れていましたが、皆が一生懸命、無我夢中で治療を続けました」。大村市北部の松原地区の住民6人でつくる同会は3日、朗読劇の練習に打ち込んでいた。
 劇の題材は、衛生兵だった福地勝美さん=2013年に死去=の体験談。1945年、松原国民学校(現在の同市立松原小)に置かれた救護所で勤務し、救援列車で運ばれてきた被爆者の看病に当たった。
 同会誕生のきっかけは10年前。メンバーの村川一恵さん(47)が同校の学校史に福地さんの手記を見つけたことだった。村川さんは福地さんに会って体験を聞き取り、地域の子どもたちに伝えるために仲間を集めて朗読劇を披露した。
 2015年には「松原小に何かを残したい」と呼びかけ、当時のPTA役員とともに平和を願うモニュメントを作成。市内外の小中学校で朗読劇を演じたり、新型コロナ禍にはDVDを作ったりしてきた。
 今年は一人の少女を捜すことをテーマにしている。福地さんが救護所で出会った少女だ。
 大声で泣く人、棒が頭を貫通した人。被爆者であふれ返った救護所の中に、福地さんは小学2年生くらいの女の子を見たという。「お母さんを捜しに来た」という少女。母親と再会できたが、母親は息を引き取った。その後少女がどうなったのか、福地さんは亡くなるまで気にかけていた。
 少女は今も生きていれば80代後半。同会では、当時の証言などをもとに少女を捜すとともに、武蔵野美術大の学生と連携してアニメーションの制作を目指している。福地さんの心残りに報いたい思いと、活動を広める狙いがあるという。
 何が活動の原動力になっているのか尋ねられ、メンバーは「自分たちでしいきる範囲よ」と笑い合う。会合では雑談で盛り上がることも多い。ただ、古里の歴史を子どもたちに伝えたい、という思いは強い。「地元やけんしよう、というだけ」。一人がそう言うと、周囲もうなずいた。
 田口哲也会長(54)は「ここでできる、自分たちのやり方を続けていきたい。こうした活動が市内の他の地域でも生まれるのが夢」と語る。無理のない範囲で、しかし、思いは強く。地域の歴史を次世代につなぐ大人たちの挑戦は続く。

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