生き残った後ろめたさは今も 爆心地から1.4キロで被爆 山口美代子さん「伝えることが使命」 #戦争の記憶

父が荼毘に付されたであろう場所を指す山口さん=長崎市立銭座小

 長崎県立長崎高女3年の時、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆した山口美代子さん(92)=福岡市南区=は、爆心地から約1.4キロにもかかわらず、生き延びた。ただ、多くの友が命を落とす中で生き残った後ろめたさは、今も消えないという。この夏、自身の体験記を出版した。「(つらい経験を)思い出し、伝えていくことが生き残った者の使命」。そう言い聞かせ、毎日を生きている。
 7月28日の昼過ぎ、山口さんは長崎市銭座町の市立銭座小の校庭にいた。被爆当時、銭座国民学校(現同小)の教頭だった父は、原爆症のため、投下から約1カ月後に39歳で死亡。同校のグラウンドで荼毘(だび)に付された。「たぶん、あの辺りで…」とグラウンド隅に立つ木を指した。父の面影が心に浮かんだのか、瞳が潤む。手を合わせ、目を閉じた。「久しぶりに会えてよかった。父も喜んでくれているはず、きっと」

 出版された体験記「あの日のこと」(今人舎)には、被爆時や父の最期の様子が詳細につづられている。本などによると、当時14歳の山口さんは、大橋工場で同級生や鹿児島県から動員された旧制第七高造士館(現在の鹿児島大)の学生と机を並べ、魚雷部品の図面書きの仕事をしていた。1945年8月9日、午前11時2分。強烈な光とごう音に、とっさに机の下にもぐりこんだ。その時に「甘いピンクの風」がほほをなでたような記憶が残る。
 倒壊した工場から抜け出した後、目の前に広がったのは「地獄絵図」。全身がただれた女児が助けを求めて右脚に抱きついてきたが、怖くて振り払った。七高生の伝令を受け、道ノ尾方面に向かう途中、待ち受けていたのは機銃掃射。飛行士の表情が分かるほどの低空飛行で狙われた。
 両親、弟、妹も奇跡的に助かった。終戦後、知人を頼りに旧伊木力村(現在の諫早市多良見町)に引っ越し。父が突然の高熱や鼻血などの症状で寝込むと、その後、山口さんも同様に発症し、隣の布団に横たわった。父は死を覚悟し、180センチと150センチの棺おけを用意。棺おけのそばで生死をさまよっていた山口さんは、父の死を境に不思議と峠を越えたという。

 体験記は銭座小や長崎原爆資料館などに寄贈。7月28日、同館の井上琢治館長と面会した山口さんは「私は爆心地(近く)でも生きていた。(後世に伝えていくため)私を役立ててください」と繰り返した。
 90歳を超えても、福岡市内で語り部活動を続ける山口さん。講話後にある児童からこんな感想が寄せられたという。友達がいる、学校に自分の席がある、そんな「普通」が幸せだ、と。「子どもたちも当たり前の日常が幸せだと分かっている。(ロシアのウクライナ侵攻など)いつ何が起きるか分からない時代。だからこそ一人一人が『平和』とは何かを真剣に考えなければいけない」と静かに語った。

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