被爆者少なく、認識の違いも 見つめた長崎市外の「8.9原爆の日」 それぞれの場所で平和を願う

サイレンを聞き、足を止めて黙とうする市民ら=9日午前11時2分、佐世保市島瀬町

 78回目を迎えた「長崎原爆の日」。長崎市外の人々はどのように迎え、何を思ったのか-。各地の「8.9」を見つめた。
 9日午前11時2分、佐世保市中心部の四ケ町アーケード。サイレンの音が響き渡ると、多くの市民が足を止め、犠牲者に黙とうをささげていた。
 被爆者や被爆遺構など、原爆の影響を身近に感じる長崎市や広島市と違い「佐世保市民で体験した人は少ない。正直、佐世保の人に原爆の知識はあまりないのではないか」。昼過ぎ、佐世保駅にいた同市の男性(83)は認識の違いを吐露した。
 5歳の時に佐世保空襲に遭い、母親と兄2人と自宅近くの防空壕(ごう)に避難して生き延びた。男性は語気を強めて言う。「長崎は原爆、佐世保は焼夷(しょうい)弾。使われたものは違うが市民の命は同じ。戦争はしたらいかん」
 厚生労働省のまとめでは、被爆者健康手帳を持つ本県の被爆者は昨年度末で2万8339人(県、長崎市交付分)。県などによると、居住地別では7割強が長崎市で最少は北松小値賀町の7人。北松佐々町17人、東彼波佐見町26人、松浦、対馬各市35人-など8市町は2桁にとどまる。
 松浦市の歯科衛生士、大城明里さん(41)は家族や親戚に被爆者はおらず、8月9日を「特に意識はしていない」と話す。この日は職場でサイレンに気づき、同僚と目を閉じた。日々の中で「平和」を深く考えることはないが、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見るたびに「戦争がないという平和」を実感する。今は「子どもたちの成長が一番」。おかえり、おいしいね、とささいな会話に幸せを感じる日常が続くことを願う。
 島原半島の被爆者でつくる県原爆被爆者島原半島連合会会長の植田政信さん(81)は、雲仙市国見町の自宅で家族とともに祈った。会員の高齢化が進み、活動は先細りしている。被爆2世に引き継ぎたいと切望しているが、平和な未来のために自らも訴え続けるつもりだ。「岸田政権は米国の顔色をうかがってばかりで腹が立つ。核抑止論を捨てて核廃絶を協議すべき」と怒りをにじませた。
 台風接近に伴い、在宅ワークをしていたのは五島市教委に在籍する米国出身の英会話講師、ニコラス・サットンさん(40)。これまでに非政府組織(NGO)ピースボートの船にスタッフとして6回乗船し、各国で証言活動をする被爆者と交流を重ねた。
 米国では原爆投下の正当化論が根強い。サットンさんは、苦しくてつらいはずの体験を語り続ける被爆者に思いをはせ、「被爆者の言葉は重い。核兵器は絶対に使われてはならない」と語った。
 全国高校野球選手権大会(甲子園)の初戦を10日に控える創成館高野球部は選手ら約50人が兵庫県西宮市内で練習前に黙とうした。部員で生徒会副会長の岩永尚大さん(17)は「(8月9日は)今の幸せ、当たり前を感じて考える日」。そう話し、スポーツができる喜びをかみしめていた。

長崎の方角を向いて黙とうする創成館高野球部=9日午前11時2分、兵庫県西宮市内

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