【戦後78年】「命捨てるな」訴え続けた父 金沢の宮腰さん、語り継ぐ

父から託された日章旗を前に平和の大切さを語る宮腰さん=金沢市内

  ●周囲から「非国民」、出征に反対し必死の説得

  ●零戦パイロットに、燃料満タンで「帰ってこい」

 戦時中、「非国民」と非難されながらも不戦を訴え続けた男性が金沢にいた。2001年に87歳で亡くなった元海軍一等航海士の宮腰外茂吉さん。宮腰さんは勝ち目のない戦争で命を捨てないよう周囲に呼び掛けたが、誰の耳にも届かなかった。終戦から78年、ロシアがウクライナに侵攻し、台湾有事も現実味を帯びる中、宮腰さんの次男司朗さん(68)=金沢市諸江町下丁=は「今こそ父の思いを後世に」と語り部として活動することを決意した。

 宮腰家には司朗さんのいとこで、20歳で戦死した割橋久仁さんの遺品である日章旗が残る。司朗さんは、この旗とともに、外茂吉さんから戦争の悲惨な記憶を幾度となく聞かされてきた。

 司朗さんによると、外茂吉さんは、もともと船乗りとして海外を回っていた。その経験から「外国と日本の国力の差は明らかだ」「この戦争は勝てない」と悟っていたという。

 外茂吉さんは、おいに当たる割橋さんが志願して出征する際も猛反対した。「おまえ一人が死んで何となる」。身内を思い、必死の説得を試みたが、周囲に「非国民だ」と批判され、おいは制止を振り切って戦場へ向かい、帰らぬ人となった。

 海軍一等航海士として特攻機と搭乗員を運んだ際は、仲良くなった零戦パイロットを「燃料を満タンにしてやるから帰ってこい」と送り出した。「父は海上で1日待ったと言っていた。それでも飛行機は1機も戻ってこんかったって」と司朗さんは父の言葉を振り返る。

 外茂吉さんが命の大切さを説き続けたのは、自身の悲惨な体験によるところが大きいという。

  ●目の前で沈む仲間

 自身が乗る船が太平洋の真ん中で攻撃を受けて真っ二つになった際は、残骸にしがみつき、2日間、海上をさまよい、何人もの仲間が目の前で沈んでいった。別の船が敵襲を受けた時は友人と手を握り合って隠れ、振り返ると友人の顔がなくなっていたという。

 「友人と隠れた場所が逆だったなら」。外茂吉さんはそう語っていたという。司朗さんは「父は戦争の恐ろしさを分かりすぎるほど分かっていた。だから、黙っていられなかったんでしょう」と話す。

  ●シベリア抑留

 司朗さんによると、外茂吉さんは復員後、生活のため船の仕事を求めて北海道に赴任。丸腰の船で旧ソ連の銃撃を受け、捕虜として捕まった。行き先はシベリア。過酷な抑留生活を経て10年後、再び故郷に帰った時には自身の墓が建てられていた。この後、司朗さんが生まれたという。

 司朗さんは「父やいとこ、多くの人が日本を残してくれたから今の私たちがいる。父に何度となく聞かされた戦争の記憶を、今度は自分が語り継いでいきたい」と話した。

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