「そういう時代も知ってほしい」戦時中の“産婆”が見た「戦争の現実」と「命の尊さ」【戦後78年「つなぐ、つながる」③】

戦時中、国が掲げた「産めよ 殖やせよ」という政策の現場を担った産婆たち。しかし、取材を進めると、国策のためではなく、ひとりの人間として尊い命と向き合った産婆たちの姿がみえてきました。

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「おぎゃー!」

助産院での新生児の沐浴。

「体重計るよ、きょうは2774」

助産師の望月知佳さんと玉川圭子さんです。妊娠や出産、育児まで、母と子に寄り添う助産師。かつては「産婆」と呼ばれ、自宅での出産を介助しました。

日本は、戦争に突入すると「産めよ 殖やせよ」を掲げ、兵力となる子どもを増やそうとしました。その重要な国策を担ったのが産婆でした。

<助産師 玉川圭子さん>
「お金も物もないのに、なんでそんなに人のためにやれるのかなと思った」

望月さんと玉川さんは産婆の経験を伝え継ごうと、戦時中を生きた11人の産婆から話を聞き、冊子にまとめました。

高木住子さん。戦時中の様子を語る音声が残っていました。

<高木住子さん>
「戦争がひどくなっちゃったですよ。空襲が激しくなって。従軍看護婦で来るようにいわれましてね。戦争中だったから、傷病兵のために尽くしたいって」

戦地に行く覚悟を決めた高木さん。しかし、病院長は「もうすぐ戦争は終わるから」と引き止めました。

<高木住子さん>
「先生がそんな、負けるなんてこと、いっちゃいけないんですけど、私らその時初めて…絶対負けると思ってなかったの、だから行くっていってたでしょ。勝つから、勝つために、看護のために行く予定だったのにね。お国のため。ほんと、それだけ」

この音声を録音した静岡大学の白井千晶教授です。

<静岡大学 白井千晶教授>
「戦争と産婆は本当に切り離せないこと。救護班に所属していたので地元を守るために疎開さえ許されなかった。ずっと地元を守った方もいれば、従軍看護師として戦地に一緒に出掛けた方もいれば、外地に行って、いろいろな方のお産をとった方もいれば、生み育ての歴史がまさに凝縮されている」

国策を担った産婆。しかし、そこにはひとりの人間として、尊い命と向き合う姿がありました。

「迫ってくる空襲警報。でも産婦さんを置いては逃げられない。さく裂した爆弾が地面を跳ね上げる。気がついたら産婦の上に覆いかぶさっていた」

高木さんの家族は、命に向き合う母の姿をみていました。

<長女 祥江さん>
「夜中でも産婦さんの主人が生まれそうだと呼びに来ると、さてと、とるものとりあえず、玄関あけて、ばっと飛び出すような感じでした」

<長男 秀彰さん>
「自分の幸せだけではなくて、人の幸せを与えてほしいという気持ちをもっていて、お産婆さんも天職だってことで」

<次女 優江さん>
「みんな誠実に生きて幸せな社会になればってふうに思っていたんじゃないかなと思う」

<高木住子さん>
「(お産を)頼まれればどんな所、どんな時も行かないわけにはいかない。それが産婆。でも、私はとてもよい仕事に出会えて、幸せでした」

ひ孫を抱き微笑む高木さん。亡くなる直前まで助産師として働きました。

<助産師 玉川圭子さん>
「こうやって置いて、こうやって聞きます」

高木さんに話を聞いた玉川圭子さんのもとには、助産師を目指す看護学生が実習に来ていました。手渡したのは、産婆が戦時中も使っていた心音を聞く道具です。

<助産師 望月知佳さん>
「10年もしたら産婆って言葉もないかもしれないんですけど、そういう時代も知っておいてほしい」

<助産師 玉川圭子さん>
「先生みんな手がきれいなんですよね、そう、いっぱい苦労してきたと思うんだけど、助産師の手ってこんなに温かいのか、きれいなのか、自分もそうなれたらいいなと」

戦争に翻弄されながらも命をつなぎ、守り抜いた産婆たち。その眼差しは、まっすぐ尊い命に向けられていました。

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