「腕切断でもあきらめない」「まだ受け入れられない」 トルコ大地震から半年たった今、被災者が感じていること

婚約者のバルシュ・バルトゥチュ(左)に手をかけ笑うエミネ・アクギュル。左腕を失い、頭部にはガーゼが残る=7月25日、トルコ・アンカラ(共同)

 5万7千人以上が死亡したトルコ・シリア大地震から半年が過ぎた。犠牲者は東日本大震災の死者・行方不明者計2万2千人超(関連死を含む)をはるかに上回る。被害が甚大だったトルコ南部アンタキヤでは仮設住宅の建設が進む一方、がれきの撤去作業が延々と続く。被災地に取材に入るたびに被害の大きさに圧倒され、言葉を失ってしまう。
 トルコは日本と同じく地震大国だ。被災者は今、何を感じているのか。突然家族を失った悲しみに暮れる遺族がいる一方、倒壊現場から「奇跡の救出」を果たした生存者は前を向いて歩き出していた。そんな対照的な2人の被災者を取材した。(敬称略、共同通信イスタンブール支局 橋本新治)

トルコ南部ガジアンテプ近郊に残る折り重なったがれき=8月5日(共同)

 ▽泣いたことのないおじが電話口で…
 家具工場で働くジェミル・ユルトセベン(24)は震災前日の2月5日夜、両親や妹と暮らすアンタキヤから遠く離れた最大都市イスタンブールにいた。親友の婚約式に出席したためだった。この日、夜の便でアンタキヤに戻る予定だったが、大雪の影響で飛行機は遅延を繰り返し、結局欠航になった。仕方なく滞在していた親戚宅に戻り、ネットフリックスでドラマを見てから床に就いた。

 翌6日未明、ジェミルはいとこからの電話で地震の発生を知った。最初は大きな被害ではないだろうと思っていたが、家族と連絡が取れず、不安になった。ようやく電話がつながったおじは、普段と違って感情的だった。「ジェミル、ここは最悪だ」と話し、電話口で泣いていた。おじが泣くなんてこれまでに見たこともなかった。すぐに車でアンタキヤに向かった。
 その途中、自宅のある8階建てマンションが「パンケーキ崩壊」を起こしている写真が届き始めた。各階の床が重なるように崩れ落ちていた。ジェミルはこのとき覚悟を決めた。「僕はリアリストだから。その写真を見て『みんな死んじゃったのだろう』と思った。よく分からないけど、最初からそんな心境だった」

家族の思い出を語るジェミル・ユルトセベン=7月17日、トルコ・イスタンブール(共同)

 ▽がれきの下で変わり果てた家族
 イスタンブールから半日かけてたどり着いたアンタキヤの被害は甚大だった。がれきの下から助けを求める声が聞こえたが、救助隊の姿はない。静寂に鳥のさえずりが響いた。夜は怖いくらいの暗闇だった。ジェミルは絶望した。「恐ろしい風景だった。この目は見るべきではないものを見たし、聞くべきではない声を聞いた。精神的に経験すべきではないことを全て経験した。なすすべもなかった。僕は力不足で、無力だった」

ジェミル・ユルトセベンの自宅マンションがあった場所(中央)。撤去され更地になっている=7月26日、トルコ南部アンタキヤ(共同)

 地震発生4~5日目にかけ、がれきから公務員の父ハサン・ドゥマン(55)、特別支援学級教員の母ガムゼ(43)、大学生の妹イライダ(21)の遺体が相次いで見つかった。3人は抱き合うように出てきた。ジェミルは「父が母と妹を守るように覆いかぶさったまま亡くなっていた」とつぶやく。最後にひと目会いたいと思ったが、変わり果てた3人の姿を見たくなかった。父はハンサムで、母はかわいらしく、妹は美人だった。そのまま覚えておきたかった。身元確認は親戚に任せた。
 ジェミルは「家族はみんな仲がよくて、愛情を隠さなかった」と話す。どんな問題も解決してくれる父を信頼していた。母とすれ違うたびに、小柄な体を抱きしめていた。親戚から、ジェミルももう大人なんだからとたしなめられるほどだった。

(左から)ジェミル・ユルトセベン、母ガムゼ、父ハサン・ドゥマン、妹イライダ=2018年7月、トルコ北西部デュズジェ(ジェミル提供、共同)

 ▽「家族に会いたくて仕方がない」
 心残りがある。親友の婚約式に出かけた日、家を出る前に母と少し口論になったことだ。数日の日程なのに、母は大きなスーツケースに服をたくさん詰め込んだ。シャツ9枚、ズボン8本、セーター、ジャンパーから水着まで。「こんなにいらない」「でもきっと寒いから」。それが母に会った最後だった。家族も自宅も故郷も失い、スーツケースだけが残った。
 この半年は早かった。ジェミルはイスタンブールに家を借りた。最近ようやく外出するようになったが、外で遊ぶと家族のことを思い、罪悪感にかられる。両親と妹のほか、祖父母、おば、いとこも犠牲となった。これまで決して熱心なイスラム教徒ではなかったが、信仰にすがりたい気持ちも生まれてきた。「そうしないと、頭がおかしくなるから」。ときおり被災地に戻り、支援活動に参加する。父や母の知人から生前の思い出話を聞くときが唯一、安らぎを感じられる。
 ジェミルは嘆く。「まだ受け入れられない。これは言葉だけでない。僕は前に進めない、何もできないんだ。家族への感情、家族の存在は変わらない。怖いぐらい会いたくて仕方がない。『死』なんて本当にあったんだ。こんなに突然降りかかってくるなんて。家族なしで生きていかなければならないことが、僕にとって一番重たい事実だ」

ジェミル・ユルトセベンの父ハサン・ドゥマンの墓(手前)。奥に母、妹の墓が並んでいた=7月26日、トルコ南部レイハンル(共同)

 ▽「奇跡の救出」の先に待っていた苦痛
 幼稚園教員のエミネ・アクギュル(25)は2月6日未明、アンタキヤの自宅で被災した。強い揺れに飛び起き、ベッドの横にしゃがみ込んだ。床が抜け落ち、がれきの下敷きになった。その後、自分がセットした携帯電話のアラームが鳴ったこと以外、よく覚えていない。水をがぶ飲みする夢を見たが、何も聞こえず、何も食べなかったはずだ。

エミネ・アクギュル。インスタグラムで元気な様子を見せる(画像は左右反転しています、共同)

 地震発生から9日目の14日、救助隊の手が背中に触れた。トルコメディアは「奇跡の救出」と現場から中継した。応急措置の後、ヘリコプターで南部アダナの病院に運ばれた。ヘリに乗ったのは初めてだった。ぼんやりと「わぁ私、ヘリに乗ってる。みんなに知らせないと」と思った。実際には全身に大けがを負っていた。左腕、右足の指先部分が壊死していた。病院で直ちに切断されたが、当初説明はなかった。鎮痛剤が効き、エミネは腕には包帯が巻かれているだけだと思った。

エミネ・アクギュル。本人のインスタグラムから(画像は左右反転しています、共同)

 19日は人生最悪の日だった。医師から手足を切断した事実を告げられたからだ。エミネは「なぜ私を助け出したの。死にたかった」と何度も繰り返した。一緒に暮らす父イスマイル(52)、母エリフ(44)が死んだと知ったのもこの日だった。入院前半は激痛に苦しみ、精神的な浮き沈みも激しかった。

トルコ・シリア大地震から8月6日で半年。トルコ南部アンタキヤの被災地には今もがれきが残っていた=8月4日(共同)

 ▽「明日はもっといい日に」
 それでも励ましてくれたのが、婚約相手で弁護士のバルシュ・バルトゥチュ(27)だ。倒壊現場から病院まで付き添ってくれた。お気に入りのアイスラテを買ってくれ、頭部の治療で髪の毛をそられても「きれいだよ」と言ってくれた。友人も集まってくれたし、弟エフェ(19)と祖母が無事だったことにも救われた。
 エミネは次第に持ち前の明るさと希望を取り戻した。「今日は嫌な日だ。何もうまくいかない。でも永遠に続くわけではない。明日はもっといい日になるかもしれない。自分に時間をあげよう。永遠に続く痛みもない。すべてよくなると信じることにした」

エミネ・アクギュル。自身のインスタグラムの動画で笑顔を見せる(共同)

 エミネは4月に退院した。首都アンカラでバルシュと暮らし、病院に通う。頭部の負傷した部分にガーゼを貼り、右足には義足を着け、左足も感覚がない。歩くことも大変だが、片手でメークの腕を磨き、コーヒーを入れる。6月から生活の様子をインスタグラムで公開すると、同じように体の一部を失った被災者から連絡がきた。エミネは1人ではなかった。
 7月に予定していた結婚式は延期した。今はリハビリに集中する。「私たちの地元の結婚式はとてもにぎやかなもの。バルシュは踊るのが苦手だけど、誰かが踊らなければいけない。やっぱり私でしょ」。エミネは笑う。「人生には価値がある。腕のない生活にも慣れてきた。毎日新しいことを学び、できることが増える。私はとても頑固です。あきらめません」

左腕を失い、頭部にはガーゼが残るエミネ・アクギュル(右)と婚約者のバルシュ・バルトゥチュ=7月25日、トルコ・アンカラ(共同)

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