ビンタ炸裂、目が動いた瞬間に…熱中症で倒れても無視、終戦直後に1億玉砕へ訓練 「私を切って」挙手した16歳女子

「当時は死ぬことしか考えていなかった。そう思い込まされた軍国主義が許せない」と語る田中邦雄さん=愛知県阿久比町の自宅で(2022年5月3日撮影)

 終戦直後、無条件降伏阻止と1億玉砕を唱えて、若い男女十数人が埼玉県秩父地域の山中や民家に隠れ住んでいた。元陸軍将校が率いた私設部隊「神風特攻後続隊」の有志たちだ。宝林院に1カ月半ほど潜伏した故田中邦雄さん=5月13日、97歳で死去、愛知県=は「完全に秘密で潜伏していたから知る人はいなかった。僕は死に場所を求めていた」と語っていた。

■新聞で隊員募集

 神風特攻後続隊は、国粋主義者の常岡瀧雄・元陸軍少佐が退役後に組織した民間の軍事部隊。敗戦が色濃くなった1945年2月ごろ、全国各地の新聞広告で志願者を募った。「本土決戦に備え、特攻隊に続く人材確保と役割を持っていた」と田中さん。「対戦車攻撃を任務とする決死隊員の集団。東京都だけでも約1万人の志願者がいた」と常岡元少佐は著書で明かしている。

 20歳以下の青少年が中心で、女性の志願者と軍事訓練参加が多かったのが特徴。3分の1は女性だった。

 その理由について田中さんは「女性は兵士にはなれないから死ぬ場所がなかった。だから、お国のために役に立ちたいと後続隊に志願した。そこまで軍国主義に洗脳され、思い詰めさせたのがあの戦争だった」と話した。

■血書で志願書

 後続隊の募集を新聞で知った田中さんは、すぐに血書で志願書を郵送。4月に東京大学文学部に入学したが、元陸軍少佐の常岡総司令から強い勧誘を受け、7月には大学を辞め本部勤務員に。志願者の受け付けや面接、軍事訓練の指導を担当した。

 都内で行われた訓練は毎週日曜の週1回。上陸する米軍戦車に爆雷を持って体当たりするために必要な「精神を鍛える」のが目的。炎天下、不動直立の姿勢を1日6時間も続けさせられた。「目が動くだけで容赦ないビンタが飛び、熱中症で倒れる人が続出しても顧みられることのない過酷さだった」

■戦車に体当たり

 忘れられない記憶がある。7月中旬、常岡総司令が数百人の後続隊員を叱咤(しった)した。

 「まだ訓練に魂が入っておらん。こんなざまならいっそ切ってしまうぞ。たとえ切られても、それによって皆が奮起するならば、その者は立派に役に立ったことになる。誰か切ってほしいものは手を挙げよ!」と言って軍刀に手をかけた。

 息をのむ後続隊員たち。その時、一人の女学校4年生(16)が顔色一つ変えずに手を挙げた。「私を切ってください」。すると、周りの若者たちが引きずられるように続々と挙手をしたという。

■「迷惑をかけた」

 8月15日には、昭和天皇による玉音放送で日本の降伏が国民に発表された。後続隊も軍国主義団体解散命令などを受け、9月2日に解散。それでも諦めきれない常岡総司令は「秩父の山中にこもって反撃の時期を待つ」と後続隊員に呼びかけた。田中さんら男女十数人が常岡総司令に従い、何カ所かに分かれて秩父に潜伏した。

 田中さんら5人は久那村(現秩父市久那)の宝林院本堂左脇の部屋に隠れ住んだ。日雇いの仕事もなく、芋掘りや炭焼きをして暮らし、決起の日を待ったという。

 ところがその後は決起の知らせもなく、後続隊員は次々に離反。田中さんも10月中旬には故郷に戻った。「切ってほしい」と手を挙げた女性は翌年春まで秩父に残っていた」と田中さんは語る。

 潜伏の手掛かりを探そうと宝林院周辺を訪ねたが、何の情報も得られなかった。「当時は空襲被災者や疎開者であふれていた。皆食べることに必死で他人を顧みる余裕はなかった。私も宝林院には『焼け出された』と身分を隠していたから怪しむ人はいなかったのだと思う。それにしても今思えば愚かなことをした。埼玉県民の皆さまにご迷惑をかけました」

© 株式会社埼玉新聞社