涙で見送った親友 「思い出したくない、喋りたくない」 それでも孫に伝えたい願い 戦闘機“飛燕”の元整備士

「軍の命令だから、これはしかたない」

自分の戦争体験を積極的に語れないでいた、旧日本軍の戦闘機の元整備(97)に思いを聞きました。

岐阜県海津市に住む、樋口一(ひぐちかず)さん。生まれは昭和元年の1926年。今年で97歳です。樋口さんは戦時中、戦闘機などの開発製造を行っていた、各務原市の川崎航空機で戦闘機や爆撃機の整備士を務めていました。当時、17歳でした。

(樋口一さん)
「これが軽爆撃機。ここに乗り込んで各務原から長良川の方へずっと飛んで試験飛行していた。油圧関係とか電動関係の装置が大丈夫かということをちゃんと乗って調べる」

装置などをチェックするため、試験飛行の爆撃機に乗りこむことも。

(樋口一さん)
「乗せてもらうのは大喜びだった。自分の整備した飛行機だから絶対の自信を持っていた」

自分の仕事には誇りを持っていた樋口さん。戦争に関わっていたことについては。

(樋口一さん)
「軍の命令だから、これはしかたない。自分の整備した飛行機は事故では落とさんぞ、絶対に安全に飛んでくれって手を合わせた」

安全に整備するのが自分の使命。そう自分に言い聞かせ、無我夢中で働く日々だったといいます。

「陸軍も海軍も若者を殺した」 思い出したくない過去

(樋口一さん)
「私にも入隊の命令が下った。飛んでいかないといけない状態になった」

20歳の時、ついに樋口さんにも召集令状が。ところが特攻隊に入隊する直前、終戦を迎えることになったのです。

(樋口一さん)
「玉音放送を聞いてやれやれと万歳した」

しかし樋口さんは、自分の体験を戦後ほとんど語らず、語り部など後世に伝える活動も行っていませんでした。

(樋口一さん)
「思い出したくない。誇らしく喋りたくない。一番仲が良かったアイツが特攻隊で逝ってしまった。本当に泣いて涙を流して握手した『気をつけて行ってこいよ』と送り出した覚えがある。あの時分は陸軍も海軍も若者を殺してしまった」

戦争に関わったことへの複雑な思い。そして親友が特攻し命を落としたことが、あの戦争について積極的に語れないでいた理由です。

しかし、去年、ロシアによるウクライナ侵略が勃発。第二次世界大戦以降、最大規模となっているこの戦争を目の当たりにして樋口さんは思いを新たにします。

(樋口一さん)
「絶対に(戦争に)なってはいけない。若者に伝えたい」

まず伝える事にした相手が、大阪に住む大学生の孫、史典(ふみのり)さん、22歳。祖父である樋口さんは、戦争体験や平和のありかたについて自分なりに話をします。

(樋口一さん)
「ロシアでは今も戦争をやっているけども、日本ほど憲法に守られて平和な国はない(Q戦時中はどういう生活だった?)戦時中は本当に物がなかった。(Qどんなことを思っていた?)『お国のために』という気持ちでいたから弱音は吐かなかった」

そして今回、史典さんの発案である場所へ。

向かった先は…“飛燕”が展示される 川崎航空機の工場があった地域

(史典さん)
「飛燕が展示されているらしいから、よかったら行ってみよう」
(樋口一さん)
「ぜひ行ってみたい」

戦時中、航空機製造が盛んで飛行場もあったことから、空の都「空都」とも呼ばれた各務原市にある、航空宇宙博物館。ここはまさに、樋口さんが働いていた川崎航空機の工場があった地域です。

ここには樋口さんが、整備に心血を注いだ、旧日本陸軍の戦闘機「飛燕」が。
細長い機体には、日本軍の戦闘機で唯一水冷エンジンが搭載され、高度1万メートルまで上昇しアメリカの爆撃機B29を攻撃しました。1年がかりで当時のままに修復された、世界で唯一現存する実物の機体です。

(樋口一さん)
「どこでもいいで触りたい。怒られてもいいで触りたい」

当時のことを鮮明に思い出し、言葉に力がこもります。

(樋口一さん)
「あそこの穴が空いている所に始動転把を突っ込んで、カーッと回す。そうするとエンジンが始動してOKと言った。バーッとプロペラが回りだした。空襲があるたびに整備をほかって逃げた。助かって工場に帰ってくると飛行場が爆弾でめちゃめちゃになっていて…そういう悪い思い出。苦労して整備したことを思い出す」

今も樋口さんの脳裏に浮かぶのは、戦争の不条理です。

(樋口一さん)
「『とにかく平和であってほしい』ということだけは願っている。『若者よ、しっかりと頼むぞ』ということ」
(史典さん)
「二度と戦争が起こってはいけないですし、僕自身も受け止めて記憶のバトンを後世にしっかり伝えていきたい」

伝えたいのは、誰もが全てを投げ出すことを強いられた、戦争の愚かさです。

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