戦場になった空 山腹に突っ込んだ戦闘機、手首から先は操縦かん握りしめたまま #戦争の記憶

真光寺の本堂に飾られている石川さんの遺影を見る東郷さん(大津市牧1丁目)

 太平洋戦争末期、東京や大阪、名古屋など大都市を中心に米軍による空襲や機銃掃射が相次いだ。滋賀県内でも大津市や彦根市、守山市などで民間人の命が奪われた。敗戦の色が日増しに濃くなる中、日本側の迎撃により、湖国の空が「戦場」になる事態も起きていた。

 1945(昭和20)年5月14日の朝、上田上国民学校3年生だった真光寺(大津市牧1丁目)の前住職、東郷正文さん(86)は、空襲警報を聞いて避難した近くの防空壕から顔を出し、空を眺めていた。

 「空が見えなくなるほど」のB29爆撃機がやってきた。400機を超える大編隊だったという。日本軍の戦闘機が3機飛来し、戦闘が始まった。しばらくして日本側の1機がふらつきながら落ちていくのが見えた。B29も1機、煙を上げて南の方に飛び去った。

 日本側の戦闘機は、少し離れた大鳥居地区の山腹に突っ込んだ。後に聞いた話では、搭乗していた兵士の遺体はバラバラになり、手首から先は操縦かんを握りしめたままだったという。

 それが海軍中尉(死亡後大尉)の石川延雄さんだと分かったのは、終戦から約半年が過ぎた46年1月、復員した弟の美貴雄さんが、亡くなった兄の手がかりをたどって寺を訪ねてきたからだ。

 石川さんは9人きょうだいの長男。法政大在学中に海軍飛行予備学生として応召し、当時は海軍航空隊の夜間戦闘機「月光」に搭乗し、伊丹から出撃したという。

 持ち帰った墜落現場周辺の土の一部が美貴雄さんから寺に託され、以降、地域の戦没者とともに石川さんの供養も行っている。その後も美貴雄さんは寺を訪れ、東郷さんの母親とは手紙のやり取りも続いた。

 最後の訪問は約15年前、東郷さんは、美貴雄さんと妹2人を墜落地点が見える場所まで案内した。「今しか来られなかった。お兄ちゃんごめんな」。涙を流す妹たちの姿に、東郷さんは掛ける言葉がなかったという。

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 同様の悲劇は現在の高島市今津町でも起きていた。45年7月28日早朝、特攻隊として九州に向かうべく、中継地の久美浜町(現京丹後市)を目指していた零式水上観測機4機が、米軍のグラマンに発見、撃墜されたのだ。4機は現在の今津町角川、梅原地区に墜落し、搭乗していた学徒動員の大学生らが死亡した。

 2001年11月、唯一の生存者である豊﨑昌二さんが、戦友を供養するため同町を訪れた。町職員を通じて来訪の意図を聞いていた光明寺(同町角川)住職の中川昌光さん(67)が出迎え、当時の状況について事前に住民から聞き取った内容を伝えた。

 静かな山里が突然、戦場となった出来事は住民の記憶に深く刻まれた。光明寺には事後処理のための本部が置かれ、仮の葬儀も行われたという。中川さんは幼少期から母に「機銃掃射に驚いて、怖いから布団に潜り込んでいた」など当時の様子を聞かされてきた。

 「戦友の菩提を弔ってほしい」。豊﨑さんからの依頼を受け、翌年からお盆の時期に、地域の戦死者とともに、亡くなった7人の冥福を祈っている。豊﨑さんは12年に亡くなったが、それまで毎年8月になると、亡くなった戦友一人一人の名前を書いた手紙が送られてきたという。

 湖国の空に散った若い命-。戦後60年が過ぎても続いた遺族らとの交流の中で、東郷さんと中川さんの胸に去来した思いは同じだった。「大切な家族や友人を奪われた人たちにとって、戦争はまだ終わってへん」

 

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