日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終戦した1945年8月15日、当時11歳の少年だった富樫仁英さん(89)は、生後10カ月の弟の遺体をおぶって焼き場に向かった。弟は、終戦前夜から15日未明にかけて秋田市の土崎港が米軍機に爆撃を受けた「土崎空襲」で命を奪われた。この空襲は太平洋戦争における最後の空襲の一つと言われている。戦争が1日早く終わっていれば…。あの日から78年あまり。今も秋田市で暮らす富樫さんの胸から、その思いは消えない。(共同通信=添川隆太)
▽終戦前夜に始まった空襲
45年3月、秋田市の土崎港にあった旧日本石油秋田製油所に勤めていた父が36歳で病没した。その後も、そばの社宅で母や弟の勇英ちゃんと暮らしていた。
8月14日は朝から、疎開中だった4歳下の別の弟に会うため秋田県五城目町を訪れた。勇英ちゃんをおぶった母と3人で電車に揺られ、駅から往復2時間ほど歩いた。とても暑い日だった。午後9時ごろに帰宅すると、疲れてすぐ寝てしまった。
午後10時半ごろ、空襲が始まった。母は空襲を警戒して準備しており、すぐに避難を始めた。米軍は7月以降、軍事施設への爆撃を予告するビラを空からまいており、秋田市では製油所が狙われることを多くの人が予期していたという。富樫さんの母親もビラを目にしていた。
富樫さんたちははじめは社宅のそばの防空壕に避難した。しかし、小屋の上に土や草を載せただけの防空壕は頼りなかった。そのままとどまるのは危険だと思い、近くの畑に逃げて社宅から持ってきた布団をかぶって身を隠した。
▽母の泣く声
勇英ちゃんは母の背中にいた。周囲には爆撃の音が響き、布団は爆風を浴びてめくれ上がって恐怖を感じた。製油所の方を見ると、爆撃を受けた空のドラム缶が飛ぶのが見えた。「地上も空も一面が炎で、真っ赤なカーテンのようだった」。当時の様子をそう振り返る。
空襲の途中、母の泣き声が聞こえてきた。一緒にいた女性との会話から、弟の死を悟った。「日中は暑い中を移動し、夜は空襲。赤子は体力が持たなかったのだろう」。母が泣く姿を見たのはこの時だけだ。
秋田市史などによると、14日夜から15日未明にかけ、約130機の米軍機が旧日本石油秋田製油所を標的に約1万2千発の爆弾を投下し、250人以上が死亡した。爆撃は製油所の周辺にも及び、死者のうち90人以上は軍人ではない日本石油職員や市民などの民間人だった。
14日から15日にかけては秋田市のほかにも、群馬県伊勢崎市や埼玉県熊谷市でも空襲があり、多くの犠牲者が出た。
▽空襲後の街へ、帰り道に知った終戦
土崎港への空襲が終わり、朝になった。富樫さんはランニングシャツの上におんぶひもで弟を背負い、死亡診断書をもらうため街に出た。早朝から出かけたが、診療所や病院はけが人であふれかえり、治療が優先だと断られた。ようやく診断書が手に入ったのは正午近くになってから。社宅へ帰る道中で、戦争が終わったことを知った。
午後には再びおぶって焼き場へ向かった。1年も生きられなかった弟の小さな体を焼くのに時間はかからず、骨はほとんど残らなかった。「正常な感覚ではなく、泣く余裕もなかった」
弟に布団をかぶせなければ良かったのではないか。戦争が1日早く終わっていれば―。後悔や無念が今も胸に残る。
▽「焼き場に立つ少年」
取材中、富樫さんは1冊の写真集を取り出した。開いたページには、口を真一文字に結んだ少年が亡くなった幼子をおぶって直立する姿を映した写真が載っていた。
米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が、原爆投下後の長崎市で撮影したとされ「焼き場に立つ少年」として知られる写真だ。「私と似ている。こんな格好をしていた」とつぶやいた。かつての自らの姿を重ね合わせて写真集を購入したという。
今年の8月14日、富樫さんは土崎空襲の犠牲者追悼式に参列した。勇英ちゃんの顔を思い浮かべ献花台に1本のリンドウを手向けた。「本当に気の毒だったと思う。どんな理屈を立てようと戦争では子どもも含めて命が奪われる。絶対に嫌だ」とかみしめるように語った。
秋田市にある「土崎みなと歴史伝承館」には、旧日本石油秋田製油所の倉庫の壁や柱が移設されており、空襲の炎や熱の激しさが感じられる。他にも、投下された爆弾の不発弾や空襲で死亡した少年が着ていた学童服などが展示されている。