溶けて変形した茶わん、古い硬貨…98年前の大震災、遺物が伝える猛火の爪痕 貴重な1次資料を研究者らが続々発見 兵庫

北但大震災の火災による高熱で、溶けて変形したとみられる茶わん類=豊岡市日高町祢布

 1日で発生から100年となる関東大震災。その約1年8カ月後の1925(大正14)年5月に起こった北但大震災について、当時の被災状況を伝える遺物が、研究者らによって相次ぎ発見されている。激震による猛火で変形し、溶けたとみられる日用品などが現存。すさまじい炎の爪痕が深く刻まれており、専門家らも被災状況を記録した「1次資料」の一種として、価値を強調する。(阿部江利)

 北但大震災は25年5月23日の午前11時9分57秒に発生。円山川河口付近を震源に、マグニチュード6.8を観測した揺れで多くの建物が倒壊した上、昼食準備の時間帯とも重なり、各地で続々と火の手が上がった。

 中でも、兵庫・豊岡の市街地や城崎温泉街などは一帯を焼き尽くす猛火に襲われ、火災による高温で溶けたり、変形したりした茶わんや古い硬貨などが近年になっても見つかっている。

 一般的に災害の1次資料は、被災状況を伝え、復旧・復興過程で使用、作成されたものとされる。このうち、発生時刻で止まったままの時計や焼け残った日用品などの「モノ資料」のほか、被災者らの日記や手記、避難所日誌やチラシなどの「紙資料」、写真、映像資料などがある。

 北但大震災のモノ資料のうち、一つは変形した茶わん類で、同市立歴史博物館(同市日高町祢布)に収蔵される唯一のモノの震災遺物だ。同市の職員だった松井敬代さん(68)=豊岡まち塾副塾長=が地域の調査中に見つけた。

 複数の食器が重なって変形し、周りには溶けた岩石のようなものが付着して固まっている。発見場所などは定かでないが、遺物の状況から、震災の猛火で焼かれたと推測できるという。

 また、豊岡市街地でも、焼けた懐中時計や、溶けて互いにへばりついた江戸時代の貨幣、刀つばなどが現存。震災で全焼した元時計店の関係者が保管しており、震災からの復興建築群の建物を調査していた研究者らのグループが、これらの遺物を譲り受けた。2025年の発生100年を視野に、今後の公開などを検討しているという。

     ◇ ### ■災害の1次資料 収集、保存で共感も次代へ

 災害などの記録を今に伝える1次資料は、大きな災害が起こるたびに、収集や保管の取り組みが続いてきた。1995年の阪神・淡路大震災では、人と防災未来センター(神戸市中央区)に約19万8千点が収蔵される。北但大震災の2年後に、今の京都府京丹後市で発生した北丹後地震でも、調査や情報集約が進んでいる。

 北但大震災では、城崎地区の復興をけん引した当時の西村佐兵衛・城崎町長の銅像と、消火を優先して火災による死者を出さなかった豊岡市田結地区の伝承碑の2カ所が、国土地理院の「自然災害伝承碑」として地図上に掲載される。被災した学校の日誌が各校に収蔵され、当時を知る貴重な手がかりになっているほか、個人の手記や写真、各地域で保管する記録なども残る。ただ、どれだけの資料が現存するのか、全体像は見えていない。

 1927(昭和2)年3月に発生し、2925人が犠牲になった北丹後地震では、23年の関東大震災、25年の北但大震災と続く中、日本で初めて近代的な科学調査が実施された。この結果、震源断層が特定され、「活断層」の言葉が使われた災害として知られる。

 京丹後市では、2004年の6町合併で市史を編さんする際、資料編で「京丹後市の災害」をまとめ、13年に発行した。また、1929(昭和4)年完成の「丹後震災記念館」を中心に、震災資料の収集や保管が行われ、犠牲者の名簿や故人の写真収集、震災を伝える絵画の作成なども実施された。資料編では、地形の特徴や震災画、写真、各地の慰霊碑と内容、震災を記録した代表的な文献などが一覧できる。

 阪神・淡路大震災では95年10月から資料の収集が始まり、2000年には2年がかりの大規模な調査も実施した。同センターの震災資料専門員の成尾春輝さん(27)は「資料の収集や保存は、震災の記憶を風化させず、教訓を伝えるための方法の一つ」と説明する。生活に身近なものでも、寄贈を機に災害の1次資料となる例も多く、「統計や数字の記録だけでは伝えきれない被災の状況を、共感を伴う形で伝えることができる」と価値を強調する。(阿部江利)

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