「まだまだ苦しんでいる」 胎児性水俣病患者が長崎大で講話 身体機能低下、厳しい認定基準

水俣病患者としての経験を語る(右から)松永さん、長井さん、永本さん。左は加藤さん=長崎市文教町、長崎大

 母親の胎内で影響を受けた胎児性水俣病患者3人が長崎大を訪れ、学生らを前に講話した。水俣病の公式確認から67年経過したが、今も患者認定を巡る訴訟が続くなど問題は終わっていない。差別や偏見に苦しんだ過去や、身体機能低下への不安を吐露した患者たちは「まだまだ苦しんでいる人がいることを忘れないで」「二度と公害を起こしてほしくない」と語った。
 講話した患者は、熊本県水俣市内の小学校などで水俣病の教訓を伝える一般社団法人「きぼう・未来・水俣」で活動する長井勇さん(66)、永本賢二さん(64)、松永幸一郎さん(60)。同法人代表理事の加藤タケ子さん(72)も患者を長年支援してきたことを説明した。

 長井さんは水俣病が公式確認された翌年の1957年、水俣市に隣接する鹿児島県出水市で出生。生まれつき足の変形で歩けず、入院中の自身の映像がニュースで流れ、「水俣病患者」だと知った。ただ、それ以上を周囲に詳しく聞くことはなかった。「当時は偏見や差別を恐れ、水俣病をタブー視し、家族でさえ語り合えない。患者はそんな見えない縛りの中で生きていた」と加藤さんは時代背景を説明する。
 当時の水俣市は原因企業チッソの発展に支えられ、工場で働く市民やその家族も多かった。永本さんの父親も従業員で、自宅は工場のそば。幼い頃は「補償金をもらえてよかね」と心無い言葉に傷つき、小学校では無理解の教諭から、病気の影響で震える足を物差しでたたかれた。悔しかった。認定のために会社と闘ってくれた父親には感謝している。チッソと切り離せない人生を歩んできた。
 公式確認後の59年には、熊本大が水俣湾の魚介類に含まれる有機水銀が原因との説を発表した。それでもチッソは否定し、公害認定される68年まで、工場からメチル水銀を含む水銀が海に排出されたとみられる。
 63年に水俣市で生まれた松永さんは「水銀が原因と指摘された時点で排水が止まっていれば人生は違っていた。国や企業が人命より経済を優先した結果」と憤りを隠さない。2010年ごろまでマウンテンバイクにも乗れていたが、足の痛みが急激に悪化し車椅子生活になった。松永さんは言う。「人は間違ったことをする。気付いたら立ち止まる勇気を持ってほしい。その思いを子どもたちには伝えていきたい」

 加藤さんは患者認定を巡る厳しい実情を嘆く。「差別を恐れて認定申請していない人が多く、発生時期には死産・流産する女性も多かったと聞く。患者数の全体像は分からない」
 熊本、鹿児島両県によると、7月末現在、認定患者数は計2284人(熊本1791、鹿児島493)。申請数は計2万8千件を超えるが、認定は1割にも満たない。加藤さんは、長井さんの母親が認定されなかった例を挙げ、「胎児性患者の母なのに認められない。理解できない判断だが、これは氷山の一角」と認定基準のあいまいさを指摘。制度の見直しを訴えている。

 講話は8月30日、長崎大環境科学部の演習(担当・友澤悠季准教授)の一環で行われた。

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