<多久物語>川浪自安の墓誌 改葬時に発見、学問所初代教授

先家君自安先生墓誌(多久市重要文化財 個人蔵 多久市郷土資料館寄託) 

 墓誌とは、墓石とは別に故人の姓名、経歴、没年などを石や金属などに刻み、副葬品として墓に納めたものをいいます。

 漢代の中国にはじまり、日本においては7世紀から8世紀にかけて、高位の官人や僧侶の墓に墓誌が埋納されました。その後墓誌の出土例はありませんが、江戸時代になり、将軍家や大名家、儒学者たちの墓に墓誌が埋納されるようになりました。儒学が幕府の学問として採用され、埋葬の方法にも儒学の影響がみられるようになったためと考えられています。

 「先家君自安先生墓誌」は、後に東原庠舎(とうげんしょうしゃ)と呼ばれる多久領の学問所の初代教授となった、川浪自安(寛永12~享保4年、1635~1719年)の墓誌です。自安は現在の佐賀市八戸町に生まれ、儒学を学び医学を修め、医者として多久3代領主多久茂矩に仕えました。

 4代領主多久茂文の命で多久に移り住み、学問所の教授となり、多久聖廟の創建にも大きな役割を果たします。碑文には自安の人となりについて、「厳かで毅然(きぜん)とし、正しい心を持ち、思いやりがあり情け深い」と記しています。自安とその妻は没後、聖廟北側の松山墓地に葬られました。

 自安の墓誌は昭和52(1977)年9月、墓地が改葬されたことで発見されました。墓石の下約1メートルに墓誌があり、墓誌の下約50センチから自安のものと思われる人骨と、自安の妻のものと思われる甕棺(かめかん)が出土しました。自安の墓は現在聖光寺(多久市多久町)に移され、人骨と甕棺も墓石の下に埋められました。墓誌は多久市郷土資料館に展示されています。(多久市郷土資料館・志佐喜栄)

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