『ニッサンR91CK』ワークスに肉薄したノバの独自改良車【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)を戦った『ニッサンR91CK』です。

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 1990年、グループCカーのレースシーンにおいて、同じニッサンのグループCカーでありながら、日本国内と海外とで異なる車両がライバルと鎬を削っていた。

 日本国内のJSPCを戦っていたのは『R90CP』というマシンで、前年よりタッグを組んでいたコンストラクター「ローラ」のシャシーを使いながらも、ニスモがニッサン内製の部品を多数使用して手直しし、鈴鹿美隆デザインのオリジナルカウルを装備した車両だった。

 一方で、ヨーロッパの世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)などに参戦していたのが『R90CK』というマシンだった。こちらはローラのオリジナルを活かし、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)が手を加えた車両で、1990年のル・マン24時間レースでは、ポールポジションを獲得する速さを見せていた。

 その後『R90CK』は、1991年に3.5リッターNAエンジンを積む新規定グループCカーがスポーツカー世界選手権(SWC)の主役になったこともあり(それ以外にもさまざまな事情から)、世界選手権こそ戦うことはなかったが、それでもまだ“CK”の火は絶やされてはいなかった。

 それは1991年、JSPCにノバエンジニアリングが『R90CK』をベースとした『R91CK』を持ち込んだからだ(このノバの車両とは別に同年のデイトナ24時間レースなどに出場した例もある)。

 ノバエンジニアリングは、1990年まで日本国内において『ポルシェ956/962C』を走らせ、JSPCのタイトルも獲得。ニッサンやトヨタのマシンが戦闘力を大きくあげるなか、劣勢となりながらも独自のモディファイをポルシェに加えて対抗していたが、ついに1991年に向けポルシェからのスイッチを決断した。

 まず、ノバはエージェントを務めていたことからローラより『R90C』のシャシーを購入した。そのシャシーに搭載するエンジンは、ニッサン以外にも選択することが可能だったが、ローラとニスモの関係がすでに構築されていたこともありニッサンを選択。

 ニスモから3.5リッターV8ターボエンジンであるVRH35Zの供給を受け、ノバの『R91CK』は完成し、JSPCへと挑んだ。

 すると、『R91CK』はその緒戦からポテンシャルの高さを発揮した。デビュー戦となった1991年のJSPC開幕戦富士スピードウェイにおいて、ニッサンワークスの『R91CP』より遅れることわずか1秒差の2位でチェッカーを受けたのである。

 その後もノバは『R91CK』にハイスピードコース用にオリジナルのローマウントウイングを製作するなど独自のモディファイを加えていき、1991年のJSPCでは計3度の2位表彰台をゲット。ランキングでも4位につけた。

 ノバによる『R91CK』の改良は1992年になっても止まらず、前年から装備していた複葉式の大型リヤウイングを引き続き採用したほか、ヘッドライトのコクピット内移設も敢行。この年は、JSPCにおいて6戦中4度の表彰台を獲得した。

 翌1993年はJSPCこそ消滅してしまったものの、インターサーキットリーグ(ICL)という構想があり、そのためにマシンを軽量化し、カウルのデザインも変更。さらにドアを廃して、ウインドウ部からドライバーが乗り込むスタイルの新規定グループCカーでのトレンドを取り込んだ『R93CK』を導入した。

 結局そのICL構想は失敗に終わり、実戦機会が同年の鈴鹿1000kmだけとなってしまったが、このレースではチームルマンの持ち込んだニッサンR92CPを下して、見事ポールポジションを獲得している(決勝は2位)。

 1990年のル・マンにおける活躍がピークであっただろう『R90CK』だが、その後本来のフィールドではなかったJSPCにおいて日本国内を戦うために(ノバのR91CKはデイトナ24時間にも参戦はしているが)、“CK”は名門ノバエンジニアリングの手でターボグループCカーの実質最終戦まで磨かれ続けたのだった。

1991年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権第3戦富士500マイルを中谷明彦とフォルカー・バイドラーのドライブで戦ったフロム・エー R91CK ニッサン。

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