妹は8歳のまま…原爆に奪われた命 絵に吹き込んで 91歳の兄が絵筆に込めた思い

100枚以上、原爆の絵を描き続けている91歳の被爆者がいます。原爆資料館で9月、展示されたのは、いまも帰らない8歳の妹の絵でした。絵筆に込めた思いがあります。

原爆資料館で開かれている新着資料展。その一角に子どもたちが集まっていました。「何年生?」と声をかける男性がいました。被爆者の尾崎稔さん(91)です。尾崎さんと子どもたちの目線の先には一人の女の子の絵がありました。

尾崎稔さん
「これわしの妹、わしが描いたもの。妹は小学校2年生じゃった」

尾崎さんは77歳のときから、自身の被爆体験や戦前の町並みなどを絵に残しています。

絵を描く尾崎さんきっかけは、孫が使わなくなった絵の具を処分してほしいと持ってきたことでした。初めて描いた原爆の絵は、あの瞬間でした。

尾崎稔さん
「ピカーっと来た時には伏せとったんじゃが、もうやけど半分しとった」

尾崎さんは学校へ向かっている途中13歳で被爆しました。顔の半分や左手に大きな火傷を負いましたが、命は助かりました。しかし、爆心地近くにいた母、妹、祖母は、今も行方不明のままです。尾崎さんが絵にするのは被爆体験だけではありません。

尾崎さんが戦前暮らした中島新町(現・広島市中区)の様子も絵に残しています。原爆で失われた街の一つです。ここにあった命が描かれています。

新着資料展で展示されている女の子は、妹の幸子さんです。当時8歳でした。この絵を描いたのは、2年前のことです。

尾崎さんは、歳の離れた幸子さんをよくかわいがっていました。しかし爆心地近くにいた幸子さんは遺骨や遺品もなく、写真すらも残っていません。

普段はスラスラと絵を描く尾崎さんですが、幸子さんの絵は何度も手が止まりました。

尾崎稔さん
「夢の中で思い出してるんじゃが、出んのよのう」

記憶の中にある、ぼんやりとした面影だけが頼りでした。「目がどうもね違うんよね」。そう言っては、下書きを消しゴムで消していきます。

尾崎稔さん
「わしが悩むことがない。絵を描くのに。初めてや。悩むのは」
記者
「妹さんの絵だから?」
尾崎さん
「じゃろうね。やっぱり、これが、他人なら、ささっと描いて、いいだろうって思うじゃろうが。この妹だけはなぁ。かわいかったけぇ、わしも可愛がりよったんじゃけぇ」

幸子さんの絵は、おととし7月に資料館へ寄贈しました。尾崎さんの絵を見続けている、学芸員の高橋佳代さんが受けておりました。

原爆資料館学芸員 高橋佳代さん
「赤い服が良く似合ってて、かわいい顔してますね。仲良かったですか?妹さんと」
尾崎さん
「みんな仲良かった。一番下じゃしな。みんな可愛がりよったよ」
高橋さん
「お兄ちゃん、お兄ちゃんみたいな?」
尾崎さん
「うん。そうそう」

幸子さんの絵は、遺影代わりとして仏壇に供えています。そしてもうひとつ…。100枚以上描いた絵の中で、一番大事にしている絵があります。

行方不明者と題された絵には、幸子さん、母親、祖母の姿があります。3人とも遺骨すら見つかっていません。

尾崎稔さん
「これは本当に腹が立って描いた。どこで泣きよるんかわからん、どこで死んだのかもわからん。一番大事なんじゃ思うよ。死んどるんよ、みんな。わしらのように生きとるんじゃない、けがしたっていっても、死んだことを考えれば大したことはないんよ。一方は命が切れとるんよ」
「怒り。絵を描いているのは、みな怒りで描いとる」

あの日から78年が過ぎました。ロシアによるウクライナ侵攻を契機に「核戦争」も現実味を帯び尾崎さんは危機感を抱えています。

尾崎稔さん
「戦争で負けそうになったら(核兵器を)落とすよ、それが戦争じゃけぇ。そこまでいかんようにするために、戦争せんように、戦争せんように、みんなが争わないように話し合わないといけない」

尾崎さんは次の絵の制作に取りかかっていました。正確に描くために、まず当時の地図や文献なども確認します。

同級生の家に不発弾が落ちたこと。戦後、被爆者から病がうつるといったデマが流れたこと。そして、奪われた日常…。描きたいものは頭の中に浮かんでいます。

尾崎稔さん
「頭を整理させて、もうちょっと考えてみる。また、ええものを考え出して、1枚2枚と」

年が明けると92歳になります。まだまだ筆を置くつもりはありません。

■新着資料展
原爆資料館東館1階で来年2月27日まで開催

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