波佐見にも空襲 壁に残る機銃掃射の跡 硝酸入れる壺も 焼き物のまちに残る痕跡

玄関の上と2階窓の上に残る機銃掃射の跡=波佐見町宿郷、銀杏屋商店(赤い丸で囲まれた部分が弾痕)

 太平洋戦争末期、軍事関連施設がある都市は米軍機による爆撃や機銃掃射の標的になった。焼き物のまち、長崎県東彼波佐見町も例外ではなく、今もその痕跡が残っていると聞き、現場を訪ねた。
 製陶業で栄えてきた波佐見町の中心部、古い商家や酒蔵が軒を連ねる一角に、プロパンガスなどを扱う銀杏(いちょう)屋商店がある。1937(昭和12)年に建てられた2階建ての木造建築。当時流行したタイルを使って仕立てたという外壁は趣がある。

機銃掃射の跡

 「玄関の上と2階の窓の上、2カ所のタイルに(機銃掃射の)弾痕が残っています」。3代目の松本德義さん(80)はそう語ると、指をさして場所を教えてくれた。玄関の上の穴は直径5センチ程度の楕円(だえん)のような形をしている。深さは約2センチ。その黒い穴を中心に放射状にいくつものひびが入っている。
 窓の上にある、もう一つの穴はコンクリートのようなものでふさがれていた。当時は弾がタイルを突き抜けて屋内に達し、部屋の中にも弾痕が残っていたという。松本さんは「近くの波佐見高等家政女学校が空襲を受けたときの跡ではないか」と推測する。
 同女学校は現在の町役場の場所に建っていたという。波佐見町史によると、地元に軍事施設ができたきっかけは44年10月25日の大村大空襲。戦闘機を製造していた大村の第21海軍航空廠が空襲に遭い、壊滅的な被害を受けた。代わりの場所として旧海軍は大正初期に閉山した波佐見金山(湯無田郷)の坑道跡に着目。機材を運び入れ、12月に地下工場を開設した。同女学校は波佐見と佐賀県武雄から動員された女学生の宿舎になった。
 終戦間際の45年4月以降は波佐見でも空襲が相次ぎ、7月31日午前10時には銀杏屋商店から約300メートル離れた同女学校が機銃掃射で狙われた。女学生1人が亡くなり、4人が負傷したという。
 同女学校から3キロ離れた下波佐見国民学校(現在の町立南小)付近でも同じ時刻に機銃掃射があった。当時の学校日誌には、空襲に備え、その年の4月から防空壕(ごう)を掘り始めたと記されている。
 当時6年だった堀池スヱ子さん(89)は「軍歌を歌いながら農業奉仕に出かける日々。勉強どころではなかった」と振り返る。空襲警報が出る度に避難した校庭の防空壕は、穴に土や板をかぶせたものだった。機銃掃射の後、学校近くの建物に弾痕の跡を見つけた時には「壕に撃たれていたら弾が貫通したかも」と友人と語り合ったことを覚えているという。
 波佐見町教委の中野雄二学芸員は銀杏屋商店に残る弾痕について「女学校の空襲とは別の日だったという証言もある。それくらい機銃掃射が頻繁にあったということではないか」と指摘する。

火薬や爆薬をつくる硝酸を入れるために作られた壺。高さ1.3メートル、周囲3.2メートル。波佐見焼として最大級の陶磁器=波佐見町井石郷、陶芸の館(町教委所蔵)

 戦時中は陶製手りゅう弾の容器部分が波佐見で焼かれ、爆弾製造の際に使われる硝酸を入れる巨大な壺(つぼ)も地元で製造されていた。中野学芸員は「どれも忘れ去られつつある貴重な記憶」と解説してくれた。

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