朝ドラで注目の"ブルースの女王"淡谷のり子の自伝エッセイ、『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』12月27日(水)発売!

NHK連続テレビ小説『ブギウギ』で注目の"ブルースの女王"淡谷のり子の自伝エッセイ『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』が12月27日(水)に発売される。

クラシック界から転身、流行歌手の草分けとして明治・大正・昭和・平成を生き抜いた伝説の歌姫、淡谷のり子92年の生涯と音楽への信念、軍部にも屈さなかったファッションのこだわりや晩年の言葉までを収録。

淡谷のり子は、1907年青森県で生まれ、青森一の呉服屋の長女として裕福に育つが、火事で家財が全焼、父親の放蕩癖も原因となり、10代で母・妹とともに上京し、東洋音楽学校に進学。在学中は苦学を極め、裸婦モデルとして生活費を稼ぎながら、クラシック音楽を学んだ。 その後クラシック歌手としてデビューし、「十年に一度のソプラノ」と称えられるなか、「魂の音楽」ジャズ/シャンソンの魅力に目覚める。 家族や教師などの反対にあいながらも、戦前の日本で女性流行歌手の草分けとして人気を博した。女性歌手でジャズを歌ったのは、彼女が初だと言われている。 私の名前は東洋音楽学校の卒業生名簿から削除され、

「遊芸稼ぎ人、八等技芸士」という鑑札を役所から持たされました。

門付の芸人と同じ扱いで戦争中の統制時代、私は軍部に抵抗しても、

自分の歌を自分のスタイルで歌い通しました。

(『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』本文より) そして第二次世界大戦が勃発。 軍部により華美なものが禁じられ、ヒット曲「別れのブルース」がラジオ放送・レコード発売禁止、妖艶なドレスとメイクが特徴であった淡谷へ、厳しい統制が入る。 「 これは私の戦闘準備なの、ゼイタクなんかじゃありません 」 戦時中でも決してモンペをはかず、スタイルを貫いた淡谷さんの数々の言動は今でも語り継がれている。終戦後も精力的に歌手活動を行い、晩年はものまね番組の審査員として、その毒舌で注目を集めた。 タレントじゃなくて、タラント。歌手じゃなくてカス、それも粗大ゴミですよ。

芸能人なんて、芸がないから芸NO人っていうんじゃないかしら。

演歌なんてケチくさい歌は、みんなロープで縛って、油かけて燃やしたい。

(『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』本文より) 歯に衣着せぬ発言は人と音楽への愛にあふれる痛快さで、不思議と敵を作らなかったと言われている。 NHK朝ドラ『ブギウギ』で注目を集める笠置シヅ子とも、戦争前後のライバルの時期を経て、生涯を通して支えあう盟友関係となった。 本書『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』では、淡谷のり子が生前に残した数々の名エッセイ群から、テーマ別に精選して収録している。 青森での出生、母への思い、クラシック音楽と恩師への感謝、波乱万丈の音楽人生や最先端のファッション、3年で終わった結婚生活や、未婚での出産、晩年の言葉など、力強く生き抜いた92年の生涯を辿る一冊となっている。 もし今度生まれてくるんだったら、やっぱり女がいいな。それもフランスの女。

パリジェンヌがいいですね。そして、今度こそほんとにフランス語のシャンソンを歌いたい。

(『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』本文より) 【淡谷 のり子 (あわや・のりこ)プロフィール】 1907~1999年。シャンソン界の先駆者として知られ、愛称は「ブルースの女王」。1937年、「別れのブルース」が大ヒット。晩年まで長く活躍。ものまね番組の審査員として、その毒舌でも注目を集めた。

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