79歳の被爆者が伝えるのは「あれからどう生きたか」 記憶がなくても米・ニューヨークで 核兵器禁止条約締約国会議に併せて

核兵器禁止条約第二回締約国会議に合わせて、現地には広島や長崎の被爆者らが駆けつけました。ただ、その多くは幼い時に被爆し、当時の記憶がない人たちです。

「記憶のない被爆者」が伝えるのは「あのとき」ではなく「あれから」です。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「私達にとって、核兵器禁止条約は希望の光です。被爆者の願いは、被害の補償、救済だけでなく、核兵器が地球上からなくなることです」

広島県被団協の佐久間邦彦理事長です。締約国会議に合わせて開催された、関連行事や街頭集会で、幼い頃の体験を話しました。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「私は、遠距離被ばくなので、被爆の影響は受けていないと思っていました。ところが、肝臓と腎臓を患い、身体がだるく、食欲がなく、このまま死ぬのではないかと思いました…」

爆心地から約3kmの広島市西区己斐で生まれ育った佐久間さん。被爆当時は9ヶ月の赤ちゃんで、縁側に寝かされていたそうです。

自分が「生後9ヶ月で被爆」と知ったのは…

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「母は、当時土間があって、そこで洗濯をしていた。『その時にピカッと光った』って言っていた。様子がおかしいということで、私を連れて、背負って逃げたということ」

母は、近所に焼夷弾が落ちたと思い、逃げようとしたということです。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「とにかくここをよじ登るのが大変だった、というのは聞いています」

佐久間さんの額にできた傷を手当てしてもらおうと母は救護所へ向かいました。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「雨にあったのはこのあたりみたいですよ」

逃げる途中に、黒い雨を浴びたそうです。

佐久間さんが、こういった自らの被爆体験を知ったのは、中学1年の時…。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「手帳を申請する時に、おふくろが初めて『こういうことがあったよ』って話を聞いた。1957年、昭和32年のころ」

それは、被爆者健康手帳の交付が始まった年でした。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「原爆の話そのものは学校では教えられた。まさか自分のこととは全然…結びつかなかった」

小学生で「自分は死ぬのかも」と思っていたのに…

佐久間さんは、自分の被爆体験を知るよりも前に、肝臓と腎臓の病気を患らい、死の恐怖を感じたこともありました。それでも、その病気を被爆と関連づけることはなかったといいます。

ABCCの調査書にも、病気のことは触れられていませんでした。病弱だった父や母についてもそうだった、と言います。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「ほとんど悪いっていうことは書いてないんですよ。原爆の影響ってわからないわけだから」

佐久間さんは、定年退職後に知人に誘われて、県被団協で相談員を始めました。年長の被爆者たちの生々しい話を数多く聞き取り、核兵器廃絶への思いを強くしていきました。

生後9ヶ月で被爆した金本弘さん
「どうしても、私達生きている間に核兵器を廃絶していただきたい。これが最大の願いです」

今、核兵器廃絶のための活動の、最前線に立つ被爆者の多くは、当時の記憶がないほど幼かった人たちです。

記憶がなくても語る意味は… 「あの時」でなく「あれから」

かつて佐久間さんは、「記憶がないから」と体験談を断っていた時期がありました。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「ニューヨークで言われたのが、『別に当時のことは、それはもう色々言われてるから調べればできます。ただ、その人その人が、どういう風に生きてきたのか、そういうことを私たちは聞きたいんだ』って言われて初めて、じゃあ…」

被爆の後を、どう生きてきたのか、どんなことに怯え苦しみ、何を知らされずにいたのか…。

広島県被団協 佐久間邦彦理事長
「原爆の本当の恐ろしさっていうのは、そこにあるんだ、と。何年経っても、ずっと引き継いでいるということであるから、そこが大事であって、だから核兵器をなくさなきゃならない…」

佐久間さんは、当時を振り返り、今どう感じるかも含めて伝えていきたいと話しています。

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