「とにかくひどい光景」 佐世保・日宇火薬庫の爆発事故 米軍撮影の現場写真か

 第2次大戦終戦の年の大みそか、佐世保市内の弾薬庫で爆発事故が起きた。さまざまな史料を確認していくと、事故があったのは「日宇火薬庫」だったことが判明。米軍が撮影した事故現場とみられる写真も見つかった。
 防衛省に事故についての資料はなく、米海軍佐世保基地も「その年代までさかのぼった記録は所有していない」という。事故現場は現在の大塔町付近だとみられ、その近くの同市東浜町には「金山弾薬犠牲者碑」があり、亡くなった9人の名前と「米兵MP2名」と記されている。犠牲者碑の建立を伝える2002年4月の本紙記事では「米軍の占領下にあった金山弾薬庫で爆発事故があった」「住民らによると、海洋投棄するため弾薬を船に積み込む作業中に事故が起きた」と報じている。
 防衛省によると、金山弾薬庫という名称の海上自衛隊の施設は、1955年に設置された。一方、市の歴史に詳しい市観光課の川内野篤係長によると、45年3月時点での現場周辺の図面が残っており、そこには「日宇火薬庫」と記されている。終戦から金山弾薬庫の設置までの経過は不明だが、惨禍は「日宇火薬庫」で発生したと考えられる。
 当時を知る関係者を探していくと、同町の尾中重夫さん(88)に会うことができた。事故で当時17歳だった兄の喜代二さんを亡くしている。
 尾中さんによると喜代二さんは当日朝、作業へ向かった。昼前ごろ、家の梅の木に登って遊んでいた尾中さんは「バーン」とすさまじい音を聞いた。火薬庫の方に目をやると、石が山の上まで飛び上がっていたという。近所は騒然となった。尾中さんは間もなく喜代二さんが亡くなったことを知らされた。遺体は海岸で見つかったという。
 生活が苦しく、家計を支えるために兄は危険な仕事へ行っていたのでは-。尾中さんはそうおもんぱかる。事故からしばらくした後、船で洋上から現場を見た尾中さん。「とにかくひどい光景だった」
 事故の詳細を知る手掛かりが少ない中、川内野氏は昨年、米軍が記録した事故現場とみられる写真を入手した。長崎平和推進協会写真資料調査部会から提供された写真の中にあった。
 写真には英文で、「廃棄のためにバージ(船)に積み込まれていた約240の日本の爆雷の暴発」「海兵隊員1人が死亡し、2人が負傷。数人の日本人が死傷」。「佐世保、日本 31日 12月 1945年」との表記があり、日付も一致する。写っている風景などから、川内野氏は事故現場の写真だと分析している。写真を見た尾中さんは「(当時)現場には船の残骸のような物があった。(写っているのは)事故現場だと思う」と話した。
 悲惨な歴史がある一方で、佐世保市には今も金山弾薬庫だけでなく前畑、針尾にも弾薬庫がある。「弾薬庫がいらない世界になってほしい」。尾中さんの静かな口調に思いの強さがにじんでいた。

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