『ニッサン・スカイラインGT-R(BNR34型/2003年)』伝統を捨て手にした“最後”の王座【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、2003年に全日本GT選手権のGT500クラスを戦ったBNR34型の『ニッサン・スカイラインGT-R』です。

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 1999年に全日本GT選手権(JGTC)にデビューを果たしたBNR34型の『ニッサン・スカイラインGT-R(R34GT-R)』。登場初年度こそ、1998年に大改造を施した先代BCNR33型のメカニズムを引き継いだこともあり、幸先よくチャンピオンを獲得したが、2000年以降は王座を他車に奪われる状況が続いていた。

 そして2002年、大きな決断を下す。それまでスカイラインの伝統として採用を続けていた直列6気筒エンジンのRB26DETTを捨て、新たに2002年のシーズン途中からよりコンパクトなV型6気筒エンジンの採用を決めたのだ。

 2002年の途中まで使われていたRB26DETTは、性能こそ一級品だったものの、サイズが大きく重量が重たかったこともあり、車両全体のバランスを考えたときには不利な面も多かった。大きく重たいRB26DETTが足枷となってライバルの『ホンダNSX』や『トヨタ・スープラ』に、スピードで劣ってしまっていたのだ。

 そこで当時の車両規定では同じメーカーであればエンジンの換装が可能だったこと、そして2002年中に市販車の『R34GT-R』の生産が終了することもあって、それまで容易ではなかったRB26DETT以外のエンジンを使うことが日産社内でも認められ、V6であるVQ30DETTの搭載に至ったのだった。

 V6のVQ30を積んだ『R34GT-R』は、2002年の第5戦富士スピードウェイで初陣を迎える。このときはRB26搭載を前提としていた『R34GT-R』に直6よりも横幅の広いV6を搭載したため、排気系のレイアウトに難儀するという問題もあったが、それでもこのレースで2位表彰台に登壇。第4戦まで表彰台すら一度もない状況が続いていたが、V6搭載の効果は着実に現れていた。

 そして2003年。この年、GT500の車両規定が大きく変わったこともあり『R34GT-R』は、さらなる進化を遂げた。

 2003年型の『R34GT-R』では、2002年まで量産状態のままであることが求められていたキャビンの前後部分をパイプフレーム化し、ギヤボックスをエンジンから切り離してリヤアクスルの上へ配置するトランスアクスル化を敢行。

 また、前後重量配分と整備性の向上のためにフロントのスプリングダンパーユニットをキャビン前のバルクヘッド左右端に移動するなど、規則で新たに認められた部分を最大限に改造した。これらのモディファイによってVQ30搭載に向けた最適化と軽量化が進み、2003年型の『R34GT-R』は、大きくポテンシャルアップを果たした。

 その結果、2002年は未勝利の『R34GT-R』だったが、この年は全8戦中3勝をマーク。そのなかで勝利こそなかったものの安定してポイントを稼いだ本山哲、ミハエル・クルム組のザナヴィニスモ GT-Rがニッサン勢にとって4年ぶりとなるチャンピオンを獲得したのだった。

 『R34GT-R』は、この年限りでGT500からの退役が決まっていたほか、2003年は日産自動車70周年という記念すべき年だったこともあり、王座奪還は至上命題だったのだが、それを見事に果たしたかたちとなった。

 そして、この2003年型『R34GT-R』で培ったノウハウは翌年にGT500へとデビューするZ33型の『フェアレディZ』に活かされていくことになる。

2003年の全日本GT選手権第2戦富士を影山正美、リチャード・ライアンのドライブで制したモチュールピットワークGT-R。
2003年の全日本GT選手権最終戦鈴鹿を制したカルソニックスカイライン。ブノワ・トレルイエ、井出有治がドライブした。

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