日本代表、「最強のファンタジスタ」5名

今週末の17日(日)に開催される中村俊輔の引退試合。豪華メンバーが集まり、ニッパツ三ツ沢球技場で14時から行われる。

日本代表の10番を背負い、欧州でも活躍した中村は「ファンタジスタ」と呼ばれることも多かった。

そこで、稀代の天才プレーヤーの引退試合を前に、その表現が日本に定着した90年代半ば以降の日本代表で愛された「ファンタジスタ」を5名紹介する。

中村俊輔

1978年6月24日生まれ

まずはその中村俊輔だ。高校時代から天才レフティの名を欲しいままにし、1997年にプロ入りした地元の横浜マリノス(当時)で1年目から27試合に出場、5ゴールを記録した。

2000年のシドニー五輪で日本の10番としてベスト8進出に貢献。2002年の日韓ワールドカップは残念ながら落選したものの、大会後にイタリアのレッジーナへ移籍を果たす。

カルチョの国で10番を背負い活躍すると、2005年夏にはセルティックへ移籍。ここで右サイドが定位置となり、チームに数々のタイトルをもたらしたほか個人としても2006-07シーズンにMVPを受賞した。

憧れの地スペインのエスパニョールを経て、2010年に帰国。横浜F・マリノス、ジュビロ磐田、横浜FCでプレーしたのち、2022年を最後に現役を引退した。

小野伸二

1979年9月27日生まれ

魔法のようなボールタッチで日本中のサッカーファンをメロメロにした、ザ・天才。

1998年に清水商業高校(当時)から浦和レッズでプロ入り。1年目から次元の違うテクニックでチームを掌握し、半年後には18歳で日本が初出場したワールドカップのメンバーに。3戦目のジャマイカ戦で途中出場するといきなり股抜きを決めてみせた。

日本が誇る「黄金世代」の旗手はしかし、翌1999年の五輪予選で相手の悪質なタックルにより左膝靭帯を断裂。復帰後オランダのフェイエノールトなどで大活躍したが、以前の輝きを知るファンは「あの怪我がなければ…」という一抹の寂しさが常に付きまとうこととなった。

2006年に浦和へ復帰した後は、ボーフム、清水エスパルス、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ、北海道コンサドーレ札幌、FC琉球でプレー。2021年に札幌へ戻り、先日現役ラストマッチを迎えた。

松井大輔

1981年5月11日生まれ

もしかしたら日本代表において、比喩ではなく本当に「ファンタジスタ」と呼ばれた初めての選手だったかもしれない。それほど松井大輔のプレーはアイディアに溢れていた。

2000年にプロ入りした京都パープルサンガ(当時)で1年目から22試合に出場すると、2年目には10番に指名。3年目の2002シーズン、朴智星や黒部光昭らとともに天皇杯でクラブ初タイトルを獲得した。

2004年に移籍したフランスのル・マンで鮮烈なパフォーマンスを見せ、「ル・マンの太陽」と呼ばれる存在に。日本代表にも定着し、2010年の南アフリカワールドカップでは1トップの本田圭佑をハードワークで支えた。

その後はロシアやブルガリア、ポーランド、さらには東南アジアなど様々な国でプレー。近年はJ3のY.S.C.C.横浜でサッカーとフットサルの“二刀流”を成し遂げている。

中島翔哉

1994年8月23日生まれ

ロシアワールドカップ後に誕生した森保ジャパン。W杯前の衝撃的な監督交代もあってチームに対する当たりも厳しかった時期に、日本代表に舞い降りた「ファンタジスタ」が中島翔哉だった。

ヴァイッド・ハリルホジッチ監督時代からキラリと光るプレーを見せていたが、新体制初戦のコスタリカ戦から10番を与えられ、南野拓実、堂安律と驚異の2列目を形成。

その中でも、笑顔を絶やさない中島の圧倒的なテクニックは見るものを魅了し、新生日本代表のイメージを鮮やかに作り上げていった。今でも当時の中島のプレーが忘れられないファンは多いことだろう。

しかし翌2019年2月、カタールのアル・ドゥハイル電撃移籍からキャリアは暗転。ポルトガルの名門ポルトでうまくいかず、欧州や中東を流浪したのち、現在浦和レッズで再起を図っている。

三笘薫

1997年5月20日生まれ

最後は、現在の日本代表において、スタジアムでのメンバー紹介の際ひときわ大きな歓声が上がるこの男。

三笘薫は川崎フロンターレのアカデミーから、筑波大学経由でプロ入り。当時は回り道とも考えられた選択だったが、大学でドリブル技術を突き詰め、世界に通じる武器に仕上げ抜いたアタッカーは、あっという間に日本から世界へと羽ばたいていった。

今や世界最高峰のプレミアリーグでも三笘のドリブルは名物に。彼がピッチ上でボールを持った時、ファンは胸が高鳴り、対峙する相手選手は恐怖に陥れられる。

8連勝の日本代表!“圧倒的強さ”を支える「中心選手」5名

「三笘対策」として2人で対応されることも増えているが、だからこそドリブラーとしての価値はより高くなる。来年1月のアジアカップでもその傑出した能力で日本を頂点に導いてほしい。

© 株式会社ファッションニュース通信社