名将・原貢監督の教え胸に 長崎・ビッグNの球場職員、小坂さん(73) 野球人支え続けた人生

生前の原貢氏を囲む会で恩師との再会に笑顔を見せる小坂さん(左)=東京都内(提供)

 スポーツには表舞台を陰で支える存在が欠かせない。普段は裏方に徹する人たちも、スポットを当てると、面白い人生を歩んでいることが…。

 長崎県長崎市の県営ビッグNスタジアムには興味深い球歴を持つ野球人がいる。グラウンド整備などの維持管理業務に励む小坂英二さんは、かつて甲子園を沸かせた三池工高(福岡)野球部出身で、名将原貢監督(故人)の同校最後の教え子の一人だ。三菱重工長崎硬式野球部を経て、軟式クラブでも長年プレーし、小中学生の指導や審判にも熱中。73歳の今も、小学生からプロまで幅広い選手を舞台裏で支え、見守る。
■“監督係”に
 福岡県大牟田市生まれで熊本県荒尾市育ち。物心がつく前から白球で遊び、中学3年だった1965年夏、自宅から自転車圏内にあった三池工高が甲子園で初出場で日本一に輝いた。率いたのはのちに東海大相模高(神奈川)や東海大でも指揮を執り、息子でプロ野球巨人の原辰徳前監督ら多くの選手を育てた貢監督。八つ上の兄が三池工高で指導を受けた縁もあって、迷わず進学した。
 甲子園フィーバーで野球部の見学に同級生100人ほどが集まった中で「最後まで残ったのは6人だけだった」。入学後1年足らずで東海大相模高へ移った貢監督との付き合いは長くなかったが「おまえは気が利かないから」という理由で、付き人のような役目の“監督係”を命じられ、濃密な日々を過ごした。
 「練習前は監督のユニホームを着る順番にベンチに置いとかないといけなかった。失敗して何回もしかられた。遠征の時は板で洗って干して、アイロンがないから布団の下に敷き、体を動かさず寝て折り目をつけた」。半世紀以上たっても「おやじ」と親しみを込める恩師との思い出は尽きない。
 投手兼外野手だった3年間、甲子園には届かなかったが、厳しい練習を積み重ねた。「今はいけない」と前置きした上で「100本ノックでも水は飲めずに、倒れたら無意識に口を開けて、やかんを求めていた。昔は殴られたり、蹴られたりするのは愛情の証しと思っていた」。
■好きだから
 高校卒業後に三菱重工長崎へ入社し、野球部は「芽が出ずに」4年ほどで退部。「もうしたくない」とも思ったが、間もなく知人の軟式クラブに入った。息子たちの学童チームを指導したり、各種大会の正式審判員を務めたりしながら、50歳手前までプレーした。
 その後は走ることに挑戦。これまでフルマラソンは10回以上完走し、今月14日も年下の同僚らと「いぶすき菜の花マラソン」に参加する。60歳から近所の土井首中野球部で監督を務めた後、65歳を機にビッグNへ。同時に早朝野球大会の審判も再開。午前3時半起床が体に染み付いている。
 昨年はプロ野球の公式戦2試合もあり、オフシーズンはソフトバンクの和田毅投手らの自主トレ会場にもなるビッグN。土の硬さなどトップアスリートの細かな要望に、今年も他の職員と試行錯誤しながら応えた。
 天候にも左右される業務の傍ら、高校野球など県内球児の熱戦に目を向けるのも楽しみの一つ。「“1年間で良くなったな”とか“故障しちゃったのかな”とか、選手の成長が分かる場所。今は子どもたちを褒めて伸ばすことも大事で、指導の仕方は難しい。だから、監督たちの言動も興味深く見ている」と語る。
 まさに野球と、スポーツと、生き続ける人生。4人の子どもと6人の孫にも恵まれた中、妻には「辞めても何もすることはないとやけん、働かんね」と言われている。
 この年になっても続けている理由は…。「断れないだけ」。そう笑った上で言った。
 「やっぱり好きだから。たくさんの人のおかげで、いろんな経験させてもらったことを少しでもお返ししたい」

プロ野球選手の自主トレに向けてマウンドを整備する小坂さん=県営ビッグNスタジアム

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