能登半島地震 長崎の病院が被災地で救助活動 「父を助けて」 道路の寸断、続く余震…緊迫の3日間

倒壊家屋に閉じ込められた男性を捜索する泉川病院の災害医療派遣チーム=石川県輪島市門前町(同病院提供)

 能登半島地震を受け、被災地での医療支援に取り組む長崎県南島原市の泉川病院の災害医療派遣チームは2日から3日間、石川県輪島市で活動した。泉川卓也院長(50)は9日、取材に応じ、道路寸断の影響で「救助やインフラ復旧の遅れ、不十分な医療や支援物資、孤立状態など、さまざまな苦境に直面していた」と語った。

◆閉じ込められた人が何人も
 同病院は2012年、雲仙・普賢岳噴火災害時の支援への恩返しも込め、自然災害時に医療支援するチームを発足。年2回野営訓練をし、16年の熊本地震や17年の九州北部豪雨など各被災地で活動を続けている。
 泉川院長は1日の地震発生直後、看護師や技師ら計12人でチームを編成。車両4台に支援物資や資材を積み込み、午後6時半に出発。2日午前10時50分ごろ、陸路で石川県に入った。
 土砂崩れや道路の陥没で交通網は断たれ、医療ニーズを把握できても届けるのが難しい状況。トラックのタイヤがパンクするなどトラブルもあった。輪島市の市街地を目指したが、約20キロ手前の同市門前町で甚大な被害を目の当たりにし、ここを拠点に定めた。
 持参のテントで野営。避難所での医療支援と行方不明者捜索の2班に分かれて活動した。泉川院長は「状況はかなり厳しかった。倒壊家屋の中に閉じ込められた人が何人もいた。だが、道路が寸断されているためか、消防や警察、自衛隊などの捜索・救助が及んでなかった」と振り返る。

◆恐怖の中の救助作業
 2日午後4時半、避難所から「自宅に閉じ込められたままの70代男性がいる」との情報が入り急行した。木造一部鉄筋の家屋1階は押しつぶされていた。「父を助けてください」。若い女性が悲痛な声で叫んだ。がれきの山に、度重なる余震。恐怖と闘いながらの救出活動で、生存率が著しく下がる「72時間」まで猶予はなかった。

 1階が押しつぶされた倒壊家屋は父母と長女の3人暮らし。最初の揺れで家を飛び出して難を逃れたが、避難前にいったん戻った父親が2回目の地震でがれきの中に閉じ込められた。
 「この辺にいるんじゃないか」。母娘は生存の希望を強く持ち続けていた。泉川卓也院長(50)が家屋周辺で男性の名前を呼んでも反応はない。同チームは屋根や床をチェーンソーなどで切り開くなどして、要救助者がいるとみられる場所を捜索した。度重なる余震。スマートフォンの緊急地震速報が鳴るたび、恐怖に襲われ、中断を余儀なくされた。「二次災害を起こしてはいけない」(泉川院長)。2日午後11時、捜索をいったん中止した。

 翌3日午前8時に再開。正午ごろ、大きな柱と冷蔵庫に挟まれた男性の遺体が見つかった。状況から判断して即死だった。母娘のおえつが漏れた。
 「お父さまは苦しまずに逝かれたと思います」。活動を終えた4日、泉川院長は母娘にあいさつした。「(お父さんを)見つけてくれてありがとうございます」。2人は悲しみと安堵(あんど)の表情を浮かべていた。

◆忘れたころに
 災害医療支援を終えて5日が過ぎた。泉川院長は「災害発生の一報と同時に緊急出動し、活動するというチームの使命は果たせた。被災された看護師や学校の教師たちが頑張って避難所をまとめようとしている姿に心打たれた」と振り返る。
 同病院の平田光看護局病院部長(52)も「降圧剤や解熱剤、鎮痛剤など車両いっぱい持参した薬品は被災者から喜ばれた。過去の災害医療支援で得た知見や独自の装備品、年2回の訓練の成果は発揮できた」と胸を張った。
 災害は忘れたころにやってくる。「日ごろの備えが大事」と2人は口をそろえる。「防災セットや食料、水など非常時用の持ち出し品の準備や災害発生時の避難所、避難経路の把握、家族間や仲間との連絡手段などをシミュレーションしてほしい」と呼びかけた。

被災者の健康状態を確認する泉川院長=石川県輪島市門前町(泉川病院提供)

© 株式会社長崎新聞社