端島(軍艦島)閉山50年 元島民らの壮大な夢、世界遺産登録への軌跡

「壮大な夢だと思っていた」と思い出を語り合う(左から)木本さん、坂本さん、岡村さん=長崎市銅座町、タイチ寿司

 長崎県長崎市の端島(軍艦島)で炭鉱が閉山してから15日で50年。2015年、世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つだが、始まりは元島民らの草の根の活動だった。03年に発足したNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」。理事長の坂本道徳さん(69)=西彼長与町=は「古里を残すため必死の思いだった」と活動の歩みを振り返った。

 「壮大な夢だと自分たちでも思っていた」。12日夕、長崎市内のすし店。坂本さんと副理事長の岡村衛さん(80)=同市=、同店を営む理事の木本太市さん(79)=同=の3人が顔をそろえ、思い出話に花を咲かせた。
 会の誕生は、坂本さんが1999年にあった旧端島中の同窓会で閉山後初めて島に上陸したのがきっかけだった。小学6年から高校3年まで暮らし、思い出が詰まる古里。朽ちる様子を目の当たりにし「何とか保存しなければ」との思いを強くした。インターネットで調べるうち「軍艦島」に関心を持つ若者と出会い、その価値を認識。世界遺産を思い描くようになった。

 40代後半で仕事を辞め、パソコン塾を開き、手弁当で活動を開始。写真展を開いたところ、約150人が来場し、想像以上の反響があった。木本さんから「きちんと会を立ち上げた方がいい」と背中を押され、発足に向けて動き出した。
 木本さんは父親が島内で終戦翌年から閉山前まで「厚生食堂」を経営。最盛期には5千人超が暮らした炭鉱の島で「島民の胃袋を満たした」ことは誇りだった。今も厚生食堂の器を大事に保管する。

 岡村さんは中学教員だった母親の転勤で、2歳から島で育った。楽しい思い出が多いが「特殊な環境は奇異に見られる」と端島出身を表だって話すことはなかった。
 考えを変えたのは坂本さんの言葉。「この島には日本人が古くから大切にした人間同士のつながりがあった。それが貴重なんだ」。岡村さんは胸を打たれ、活動の輪に加わった。
 2003年3月、元島民ら10人ほどが中心となって会が発足し、夢への挑戦が始まった。

 長崎市端島(軍艦島)の元島民らが2003年に発足させ、世界文化遺産登録実現の火付け役となったNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」。困難にぶつかりながらも、理事長の坂本道徳さん(69)を中心に活動を続けた。
 シンポジウムや企画展、チャーター船による「急接近ツアー」を開催。産業遺産情報センター(東京)センター長を現在務める加藤康子さんや、九州他県のNPO法人とも知り合い、活動をともにしていく。
 マスコミの注目を集める一方、否定的な見方をする元島民も少なくなかった。「世界遺産になるわけない」「売名行為では」。心ない言葉に心を痛めた。
 この間、坂本さんは会の活動で多忙を極め、パソコン塾の閉鎖に追い込まれ、経済的に困窮した。「お父さんがやらなければ、誰が伝えるの」。支えてくれたのは同じ端島出身の妻、裕美子さん=昨年10月に68歳で死去=だった。

 端島への一般市民の上陸が解禁された2009年、「端島炭坑」は「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産の暫定リスト入りを果たし、風向きが変わり始める。政府が13年に「明治日本の産業革命遺産」として推薦を決め、夢の実現に大きく近づいた。
 だが、端島など構成資産7施設で戦時中に朝鮮半島出身者が働かされた「徴用」の問題で韓国が反発。日韓両政府は15年6月、登録に向け協力することで一致したが、審査での意見陳述の内容を巡り対立し、審査直前まで交渉が続いた。
 同年6月下旬、ドイツ・ボンで国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が開幕。日韓協議の難航で審査日程が急きょ1日先送りになる中、坂本さんと岡村衛さん(80)、木本太市さん(79)の役員3人は7月5日夜、仲間とインターネット中継で審査の行方を見守った。

 「コングラチュレーション ジャパン」。世界遺産委の委員長が日本政府代表に祝福の声をかけ、モニター越しに3人も登録決定が分かった。「活動を続けたかいがあった」。3人は喜びを分かち合った。
 世界遺産登録も追い風に端島は上陸者数が200万人を突破し、長崎市を代表する観光資源となった。一方、閉山から50年の月日が流れ、元島民の高齢化が進む。会も発足から20年を過ぎ、坂本さんも4年前に体調を崩し、ガイドも体力的に厳しくなった。
 3人はこう願う。
 「端島での暮らしは島民が協力し合う運命共同体だった。今の日本は個々のつながりが薄れてきている。端島を見てほしい。歴史を継承し、日本の未来に生かしてほしい」

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