90年W杯の「影のMVP」と呼ばれたドイツのレジェンド、ブレーメが63歳で逝去…強烈な左足と繊細な右足を持った世界最高のSB&WBの生涯とは

バイエルンやインテルで活躍したドイツ・サッカーのレジェンドで、同国代表選手として1990年イタリア・ワールドカップ優勝に大きな貢献を果たしたアンドレアス・ブレーメが2月20日、突然の心停止によって63歳でこの世を去った。

パートナーのスザンネ・シェーファーさんによる声明でその死が明らかになったブレーメは、1960年11月9日にハンブルクで生まれ、78年に地元のクラブであるバルムベック・ウーレンホルストでプロデビューを飾ると、ザールブリュッケンからカイザースラウテルンに加入し、ここで両足の技術の高さ、多用途性が認められ、選手として大きな飛躍を遂げる。

この時期、強豪ハンブルクからのオファーを受け、この故郷のクラブでのプレーを望んだが、86年に名門バイエルンに迎え入れられ、ブンデスリーガ優勝の他、チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)決勝進出も果たした(ポルトに敗れて準優勝)。そして88年には、当時世界最高峰リーグだったイタリア・セリエAにローター・マテウスとともに参戦、インテルでは加入1年目でスクデット獲得に大貢献した。
92年に移籍したスペインのレアル・サラゴサでは監督との確執もあって1年限りの在籍に終わり、復帰した古巣カイザースラウテルンでは1995‐96シーズン限りでの引退を表明するが、ここでDFBポカールを制すると同時に2部降格という天国と地獄を味わい、現役続行を決意。1年での1部復帰を果たすと、その翌年には1部でも優勝という至上の喜びを味わった上で、今度こそ本当にそのキャリアに幕を下ろした。

また代表チームでは、84年2月にA代表で初キャップを刻み、EURO(欧州選手権)にも出場。同年はまた、オリンピック代表としてロサンゼルス五輪のメンバーにも名を連ねている。そこから、86年メキシコW杯(準優勝)、EURO88(自国開催でベスト4)、90年イタリアW杯(優勝)、EURO1992(準優勝)、94年アメリカW杯(ベスト8)と連続してメジャーイベントに出場を果たしている。

メキシコW杯では高地ゆえの気圧の低さの中で両足での強烈な一撃が相手チームを苦しめ、準決勝では優勝候補筆頭のフランスから弾丸FKでGKジョエル・バツのパンチングミスを誘い、先制ゴールを奪って決勝進出に大貢献。決勝ではアルゼンチンに敗れるも、敗色濃厚の状況から試合を振り出しに戻した2つのゴールは、いずれもこの左SBが蹴るCKから生まれた。 ただ、それ以上の存在感を発揮したのが、その4年後だ。3バックシステムの左WBとして、ユーゴスラビア戦でユルゲン・クリンスマンの鮮やかなダイビングヘッドを引き出すクロスの他、普通にゴール前に入れると見せかけて切り返しからのカットインのシュートでチームの4点目を生み出すなど、初戦から大活躍を見せ、当時のホームグラウンドだったミラノ・サン・シーロでのオランダ戦(ラウンド・オブ16)では、右足でGKハンス・ファン・ブロイケレンを手玉に取る巧みなカーブシュートで決勝ゴールを奪ってみせた。

準決勝イングランド戦では、再び左足の弾丸FKが炸裂し、壁に当たってディフレクトしたボールはゴールに吸い込まれた。そしてアルゼンチンとの決勝、一方的に攻めながらもゴールが奪えずにいた85分に得たPKで、本来ならマテウスが蹴るところを、彼が後半から履き替えたスパイクに違和感を覚えていたことから、このウイニングゴールを託されたブレーメは、左足ではなく、右足で“PK阻止の名手”セルヒオ・ゴイコチェアですら絶対に届かない位置へ正確に流し込み母国に栄光をもたらした。

見た目は無骨なパワーファイターといった感じで、実際にパワフルなキックを武器にし、守備時には泥臭いプレーも厭わなかった一方で、アーティストのような繊細なテクニックを併せ持ち、戦術眼も優れていたブレーメは当時、間違いなく世界最高の左SB&WBであり、同大会の「影のMVP」とも呼ばれ、当然ながらベストイレブンにも選出された他、この年のバロンドールでは、マテウス、サルバトーレ・スキラッチ(イタリア代表/ユベントス)に次いで3番目に多い得票数を記録している。
奇しくも先月1月7日には、この90年W杯で監督としてチームを率いたフランツ・ベッケンバウアーが78歳で亡くなっており、ドイツ・サッカーは続けて偉大な人物を失ったことに悲しみを表わしたが、それは世界も同様であり、DFB(ドイツ・サッカー連盟)、バイエルン、カイザースラウテルンはもちろん、インテル、サラゴサ、さらにはブレーメと対戦した多くのクラブ、FIFA(国際サッカー連盟)からも弔意が示された。

言うまでもなく、彼の多くの仲間からもその死を悼むメッセージが寄せられているが、なかでもキャリアの最も輝かしい時期を長く共に過ごした盟友マテウスの「私がこれまで一緒にプレーした中で最高の選手だった」という賛辞と、サラゴサでわずか1年間だけ共闘した同クラブのレジェンドであるシャビエル・アグアドの「アンディは、右足と左足のどちらがより効果的なのかが分からない唯一の選手だった」というコメントが印象的である。

引退後は、カイザースラウテルン、ウンターハヒンクの監督、シュツットガルトでジョバンニ・トラパットーニ監督のアシスタントを務め、コメンテーターやクラブアドバイザー、実業家、投資家としても活動し、多額の借金を抱えてかつての仲間から救済されたことが報じられるなど、苦労も味わっていたというブレーメだが、その輝かしいキャリアに敬意を表すとともに、冥福を心から祈りたい。

構成●THE DIGEST編集部

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