東日本大震災で家族3人犠牲、石巻の29歳語り部が伝える「人生最大の後悔」 原点は3.11の2日前

震災遺構・大川小学校で「人生最大の後悔」を伝え続ける永沼悠斗さん。「備えに絶対はないけど、助かる確率を1%でも上げるために行動してほしい」=宮城県石巻市

 津波が人を、家を、町をのみ込んだ東日本大震災の発生から11日で13年になる。宮城県石巻市の会社員、永沼悠斗さん(29)は語り部として「人生最大の後悔」を伝えている。知ってほしいのは震災前にあった町の暮らしと、それがどう変わってしまったのかということ。弟を含む多くの児童が亡くなり「悲劇の場所」といわれた母校・大川小学校で、ささやかでかけがえのない日常と備えの大切さを説き続ける。(名倉あかり)

 石巻市立大川小は、全校児童の約7割に相当する子ども74人と教職員10人が亡くなった。あの日、大津波警報の発表後、児童らはしばらく校庭にとどまった。避難を始めた直後、津波に襲われた。

 「廊下が長くて、雑巾がけがめっちゃ大変だったんですよ。足がぱんぱんになりました」

 現在は震災遺構となった大川小の跡地。津波の爪痕が生々しく残る校舎を背に、永沼さんが懐かしそうに目を細めて話す。

 地域ぐるみで盛り上がった運動会、誰が作ったのか分からない校歌の替え歌、卒業制作で描いた中庭からの景色-。子どもの笑い声が消えて静まりかえった遺構に、思い出を語る凜(りん)とした声が響く。

 永沼さんは震災当時、高校1年生。津波で同小2年だった弟=当時(8)、祖母=同(65)、曽祖母=同(88)=を亡くした。

 被災体験を話そうと思えば話せる。でも、聞き手の多くは災害で家族を失った経験がない。震災を自分事として考えてもらうには、ありふれた日々の生活がここにもあったことを伝える方がいい。そう思った。

 語るのは、自分のためでもある。

 3月11日の2日前。9日昼にも、三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があった。砂浜でランニングをしていた永沼さんは、地鳴りに恐怖を感じて自宅まで走って逃げたが、揺れのことを家族の誰とも話さなかった。夜は何事もなかったかのように、みんなでカレーを食べた。

 弟はスクールバスで通学していた。祖母と曽祖母は11日の地震後も弟がバスで帰ってくるものと思い、帰宅を待っていた。すぐ一緒に避難できるよう軽トラックに乗り込み、エンジンをかけていたところを津波にのまれたようだった。

 自分には、9日の地震を伝える時間が2日間もあった。家族や学校と避難、バスの運用について話し合っておけば-。行動できなかったことが、人生最大の後悔になってしまった。

 震災後数年は、目の前の生活に精いっぱいだった。大学生になって、初めて災害と向き合う時間が生まれた。家族の半分を失った。実家がない。周りとの違いに生きづらさを感じた。未曽有の災害を生き延びてもこんなに苦しい。それを伝えれば、備えにつながるのではないか。「自分のように後悔する人を減らしたい」。そこに語る意義を見いだした。

 メディアの取材にもできるだけ応じてきた。意図しない思いが切り取られて記事になり「消費された」感覚になったこともある。それでも「人の命を守るために悩み、葛藤しながら情報を発信しているのは一緒のはず」と信じている。

 自分にとっての原点は3月11日でなく、3月9日。次の災害はいつ起こるか分からない。今できることを今してほしい。今日も言葉に熱がこもる。

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