「未来失った」帰れぬ福島、消えぬ悔しさ 避難者訴訟の原告団に加わる71歳 毎年3月は睡眠薬を手放せず

「私たちがした苦労を他の人にさせてはならない」と話す菅野みずえさん=三木市吉川町上松

 「私たちが味わった苦労を他の人たちにさせるわけにはいかない」。東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町から避難し、兵庫県三木市吉川町に移り住んだ菅野みずえさん(71)は、関西への避難者が国と東電に損害賠償を求めた集団訴訟(関西訴訟)の原告団に名を連ねる理由をこう話す。東日本大震災発生から11日で丸13年たつが「未来を失った悔しさは変わらない」。(小西隆久)

 菅野さんは震災の2年前、夫昭雄さん(73)の実家を継ぐことになり、大阪府から福島県浪江町に移り住んだ。江戸時代に建てられた古い農家を耐震化し、花卉(かき)農業を始めるために研修を受けた1年後、震災に遭った。福島県の仮設住宅を経て、2015年に三木市へ移住した。

 昨年12月。特定復興再生拠点区域として避難指示が解除された浪江町津島の自宅に帰省した。ダイニングテーブルやスズメバチの巣などの放射線量を測定すると、いずれも高い値を示した。「現実的に帰れないことは分かっている。だけど…」。割り切れなさと、帰還を推奨する国や県への疑問が胸中にこみ上げる。

 震災前までは、身近に1人だった白血病の死者が、原発事故後の数年で7人に増えた。自身も16年2月の検診で左の甲状腺に異常が見つかり、すぐに手術を受けた。免疫力ががたっと落ち、新型コロナウイルスには2回も感染した。「これを被害と言わなければ何が被害なんでしょうか」

 長い裁判をともにする自主避難者に対する世間の非難や中傷には「それまでの生活も仕事もすべて捨てて、子どもを守りたい一心で逃げてきた気持ちをなぜ分かってもらえないのか」と沈んでいく気持ちを抑えられなくなることもある。

 もうすぐ10年になる三木市での暮らしは穏やかだ。「食べるものは自分たちで」と白菜や大根、ネギやジャガイモといった季節ごとの野菜を栽培する。孫(3)が遊びに来ると、近所の人たちは「食べさせてあげて」と採れたてのイチゴを持って来てくれる。「先祖から受け継いだ田畑や家を失う悲しみを肌身で分かってくれた」と感謝しかない。

 一方で「津島のばっぱ(おばあちゃん)として、何も言わなくても分かってもらえる仲間たちと送るはずだった未来がなくなってしまった」。むなしさは募る。毎年3月になると睡眠薬が手放せない。それでも集会参加の呼びかけがあれば、大阪でも神戸でも出かけていく。

 21日には兵庫県避難者の集団訴訟(兵庫訴訟)の判決が出る。「国と東電には社会的な責任がある。それをはっきりさせなければまた同じ苦労をする人が出る。そうはさせたくない」

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