余震の中、授かった宝物 東日本大震災の翌日誕生・尾形さん(青森・東北町) #知り続ける

生まれたばかりの愛華さん(右)を優しく見つめる優佳さん=2011年3月12日、三沢市立三沢病院(優佳さん提供)
小川原湖畔にたたずむ優佳さん(右)、愛華さん親子。姉妹のように仲良くやりとりしながら、遠くを眺めた=9日、東北町の小川原湖公園

 東日本大震災翌日の2011年3月12日。余震が続いていた青森県三沢市の市立三沢病院で、新たに生まれた命があった。東北町の主婦尾形優佳(ゆか)さん(38)は長女愛華(あろは)さんを出産した。日本中でかけがえのない多くの命が失われた次の日、授かった宝物。「人の役に立つ仕事に就きたい」と将来の夢を打ち明ける娘は、13歳になった。

 同年3月11日午後2時46分。優佳さんが同病院の健診から戻ってきた頃、突然強い揺れに襲われた。東北町の震度は5強。停電でテレビが消えた。詳しい情報が得られないまま不安な一夜を過ごした。

 12日朝、産気づいた。予定日より12日早い。急いで家族が運転する車で三沢市へと向かった。病院は停電によって非常電源に切り替わり、非常灯と呼ばれる小さな明かりがついて薄暗かった。売店で買った新聞を見ると、震源に近い宮城県の港や街が津波にのみ込まれていく写真が目に飛び込んできた。がくぜんとした。

 陣痛が激しくなり、昼ごろ分娩(ぶんべん)室へ向かった。病院は沿岸から西へ約3.5キロに位置していた。大地震が再び起きた場合、国道338号を越えて大津波が押し寄せてくる可能性も否定できない。「またあんなでっかい揺れが来たら、どうしよう。早く出さなきゃ。産んであげなきゃ」。心の中で叫んだ。

 12畳ほどの部屋には産婦人科の丸山英俊医長(65)のほか助産師、看護師が数人いた。震災4カ月前に開院した真新しい建物は船の甲板にいるような横揺れに時折見舞われた。この日、三沢市で確認された震度1以上の余震は、19回。「来てるね」「揺れているね」といった周りの声が聞こえてきた。

 初めての出産。痛さと怖さとの闘い。分娩台のレバーを握る手に、ひときわ力が入った。「目をしっかり開けてね」。両隣の看護師が優しい声をかけてくれたり、体をさすってくれたりしたのに救われた。

 「生まれたよ」

 午後3時36分。周りから声がした。泣き声が聞こえず不安がよぎった。すぐにぎゃあぎゃあという産声が上がると、ほっとした思いがこみ上げ、一筋の涙が頬を伝った。「えくぼが出るね」「赤ちゃんも頑張ったんだよ」と、部屋のみんながねぎらいの言葉をかけてくれた。体重は3169グラムで、至って健康体だった。

 出産してから6日後、娘を抱いて退院した。後にすさまじい被害の状況を知ることになった。失われた命は全国で1万5千人超。行方不明者は3400人近くに上る。県内では津波により三沢市で男性2人、八戸市で女性1人が命を落とした。同市の男性1人は行方不明のままだ。

 「申し訳ないな。喜んでいいのかな」という葛藤があった。出産のさなかに亡くなった人の話も報道で伝え聞いた。大津波の映像を見るのは、苦手だ。落ち込むこともあったが、すくすく育つ娘と接するうち、考えは変わった。「わが子を抱っこできなかった親がいる。そんな人の分も頑張って親子で生きようと思った。大切に大切に、この子を育てていこうと思った」

 愛華さんは小学校の授業で震災について学んだ。自分が生まれた前日にたくさんの人が亡くなった現実を知った。そして立派に産んで育ててくれた母の苦労と愛情の深さを知った。もちろん優佳さんのことを、尊敬してやまない。

 優佳さんは、母として願う。「好きなことを好きなだけやって生きて」。157センチという自分の身長を追い抜いた中学1年のまな娘を、優しく見つめた。

 13年前の、「あの日」のように。

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