両親と6人のきょうだいが下敷き 小5生が描いた「黒い虹」の絵、遺児支援の象徴に 神戸に日本初の支援拠点

阪神・淡路大震災で父と妹を亡くした「かっちゃん」が描いた「黒い虹」の絵。遺児支援の象徴になった=神戸市東灘区本庄町1(撮影・小林良多)

 その絵には「黒い虹」というタイトルが付けられている。黒い夜空に、緑、青、黄、そして黒色を重ねた虹が架かっている。神戸市東灘区の「神戸レインボーハウス」で、私たちはその絵のパネルを見ている。

 ハウスは日本初の遺児支援拠点で、阪神・淡路大震災をきっかけにできた。「この絵は、親を亡くした子どもの心を知る『原点』のようなものなんですよ」。ハウスの職員、富岡誠さん(68)が教えてくれる。

 描いたのは当時小学5年生の「かっちゃん」という男の子だ。

 1995年1月17日午前5時46分。かっちゃんが暮らしていた神戸市中央区宮本通の2階建て文化住宅は大きな揺れで崩れ、両親と6人のきょうだいが下敷きになった。39歳だった父は5時間後、遺体で見つかる。8歳の妹も命を落とす。

 かっちゃんが助け出されたのは9時間後だった。暗いがれきの中から引き出されたとき、目をむいて震えていたという。

 震災後、すぐに被災地に入った「あしなが育英会」(本部・東京都)の職員らは、新聞記事の死亡者名簿などをもとに子どもがいるとみられる世帯を1軒ずつ訪ねる。最終的に573人の遺児を確認した。その1人がかっちゃんだった。

   

 「震災後、乱暴になる子どももいたけど、かっちゃんは真逆ですごくおとなしかった。弱々しくて、赤ちゃんのような言葉を使うこともあったよ」

 そう記憶をたどってくれたのは元職員の樋口和広さん(58)=島根県=だ。「震災のときのことを聞いたら『怖くて、声が出んかった』って」。だから救出が遅れたのだという。

 かっちゃんが「黒い虹」の絵を描いたのは震災の年の夏のことだ。育英会などが兵庫県香住町(当時)に2泊3日で34人の遺児を招いた。

 海水浴を楽しんだ後、海岸近くで子どもたちはトーテムポールを作る。白い板に絵の具で自由に絵を描いて柱に張りつけた。かっちゃんは板を黒く塗りつぶして、そこに緑、青、黄色、そして赤色の4色で虹を描いたが、赤色の線を黒で隠したらしい。

 「そのときは何の絵なのか、よく分からなかった」と樋口さん。絵は上下逆さまに柱に張りつけられた。

 後日、トーテムポールが写った写真を見て、「この絵はおかしいぞ」と職員が気付く。大人たちは、子どもたちが負った心の傷の深さを思い知らされる。そうして99年、「レインボーハウス」ができた。子どもたちの心に「七色の虹を取り戻せるように」という願いを込めて。

   

 かっちゃんは震災の5、6年後を最後にハウスに姿を見せなくなったという。一方で「黒い虹」の絵は遺児支援の象徴となり、レインボーハウスは各地に広がる。2006年には東京に、11年の東日本大震災後、東北では3カ所にできた。「黒い虹」の絵の複製は仙台のハウスにも置かれ、それぞれの遺児同士の交流も重ねるようになる。

 昨年11月には阪神・淡路と東日本、二つの大震災の遺児が神戸に集った。神戸の遺児は30~40代、東北は高校生が中心だ。

 私たちはそこで、「ゆっぴ」と呼ばれる女性に出会う。東北の参加者に優しく言葉をかける彼女は、4歳だった29年前、母を亡くした。「お母さんのことを考えても、何も思い出せないことがつらかったなあ」。私たちは、この29年間のことをもっと聞かせてもらいたいと思った。

 神戸と東北。遺児たちの物語を届けたい。(中島摩子、勝浦美香)

■かっちゃんが1995年の夏に書いた作文■

 「かすみのつどい」で絵をかきました。「きれいなにじ」をかきました。青と黄色のにじをかきました。月をかいて、空を黒くぬりました。ぼくをたすけてくれた、お父さんのことは、夜におもいだします。よくこわいゆめをみます。いつもおねえさんが、大きいこえでおこしてたすけてくれます。

 学校でともだちに、よくどつかれいじめられます。でもブランコやスベリだいが大すきです。べんきょうはきらいだけどしゅくだいはちゃんとしていきます。お父さん、てんごくでいてください。

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