【名馬列伝】日本競馬史上初の五冠馬・シンザンの生涯。実況アナが思わず「消えた!」と叫んだ伝説のラストラン

太平洋戦争の勃発が1941年の暮れ。年を追うごとに日本の戦局は悪化し、当然のごとく競馬にも影響が及び、開催は縮小の一途をたどる。それでもなかなか中止には至らず、大戦も終盤の44年になって、やっと馬券発売を伴う開催に中止の命が下った。

前述で「馬券発売を伴う開催」と断ったのには理由がある。実際には1944年にも帝室御賞典(現在の天皇賞)や、東京優駿(日本ダービー)や優駿牝馬(オークス)などの大レースは馬券を売らず、関係者以外は競馬場に入れない状態で「能力検定競走」の名のもとに開催されていたからだ。一説によると、その頃すでに馬主の資格を得ていた作家の菊池寛は、東京優駿を現場で見た数少ない関係者のひとりであったという。

戦後、JRA(日本中央競馬会)の前身である日本競馬会の主催で競馬が再開されたのは終戦の翌年である46年。戦地で生き残った関係者、北海道や東北に疎開していた人と馬も厩舎に戻り、徐々にではあるが復興への歩を進めていった。

日本競馬会が吉田茂内閣のもとで策定された競馬法によって特殊法人「日本中央競馬会」に改組されたのが54年。その2年後には中山グランプリ(現在の有馬記念)が新設され、59年にはハクチカラがアメリカ遠征を果たすなど長足の進歩を続けて熱心なファンを増やしてきた日本競馬にとって、待望のスーパーヒーローが誕生したのは、一度目の東京オリンピックが開催された64年。日本競馬史上2頭目となる戦後初のクラシック三冠馬となった「五冠馬」シンザンだった。
シンザンの父は、55年に英国から日本へ輸入され、計7度のリーディングサイアーに輝いた愛ダービー馬のヒンドスタン。北海道・浦河町にある松橋吉松の牧場で母ハヤノボリ(父・ハヤタケ)の仔として生を受けた。骨量の豊かさを評価され、橋元幸吉に高価で買い取られ、京都競馬場に厩舎を構える名伯楽、武田文吾の厩舎へと預託される。

シンザンは調教で”走らない”ことで知られた。担当厩務員の中尾謙太郎(のちに調教師となって桜花賞馬ファイトガリバーなどを管理)は、他の厩務員に馬鹿にされたり、からかわれたりするほどだったという。

だが、本番のレースへ向かうと、シンザンは強かった。2歳の11月に新馬戦(京都・芝1200m)でデビュー勝ちを飾ると、6連勝で一冠目の皐月賞を制してしまう。しかし武田は、同厩のオンワードセカンドの方が強いと見ており、実際にスプリングステークスでのシンザンは単勝オッズ10.5倍の6番人気に過ぎなかった。しかし武田の愛弟子である騎手の栗田勝はシンザンのポテンシャルの高さを見抜いて惚れ込み、決して手綱を他に渡そうとはしなかった。武田はスプリングステークスのあと、シンザンに向かって己の不明を恥じたと伝えられている。 ただひとつ、シンザンには困ったことがあった。後肢の脚力が強まるにつれて踏み込みが深くなり、前肢の蹄鉄にぶつかって出血するようになったことである。ここで武田は一計を案じた。装蹄師と相談し、後肢に付ける蹄鉄の前方に空気穴の開いたカバーを付け、同時に前肢の蹄鉄にはT字型のブリッジを渡した、俗称『シンザン鉄』と呼ばれる、当時としては画期的な蹄鉄を考案。これでシンザンのストロングポイントを生かしつつ、同時に怪我を避けることに成功した。

皐月賞を勝ったシンザンだったが、日本ダービー(GⅠ、東京・芝2400m)に向けての調整が思うように進まず、当時あった平場のオープン(東京・芝1800m)をひと叩きして本番に臨むことを決める。案の定というべきか、ここでシンザンは格下の馬を捉え切れずに2着に終わり、初の敗北を喫する。

しかし、これもまたシンザンの特徴として挙げられるのだが、現役を退くまでに4度の黒星のうち平場のオープンだけで計3敗しているのだ。誤解を恐れずに言えば、当時はビッグレースに向けての叩き台として設けられたレースという意味合いがあり、ここで敗れてもさして気にするものでもなかった。あったのは、調教を含めて「シンザンは金にならないときは走らない」という皮肉交じりのジョークぐらいだった。

迎えた日本ダービーは、皐月賞3着のあと、NHK杯を勝って勢いに乗るウメノチカラとの一騎打ちという前評判通りとなった。4コーナーで外を回ったシンザンに対し、ウメノチカラは内を突いて先頭に立つが、シンザンは栗田にステッキを入れられると敢然とそれを差し返し、1馬身1/4差を付けて二冠制覇を見事に達成した。走破タイムの2分28秒8は当時のレコードタイムだった。
シンザンが三冠制覇で、一番苦しんだのは菊花賞(GⅠ、京都・芝3000m)だった。

原因は、いわゆる「夏バテ」。京都競馬場の自厩舎で夏を過ごしていたが、その年の京都は酷暑に見舞われ、厩舎に扇風機を持ち込んだり、氷柱を吊るしたりと対策を講じたが、シンザンの体熱はなかなか下がらず、平熱に戻るまで1か月を要した。そのため本格的な調教を始める時期が10月の初頭までずれ込み、武田は叩き台レースを使いながら仕上げる策をとることにした。

10月の平場オープンは2着に終わると、続いて出走した11月の京都杯(京都・芝1800m)でも2着と連敗。陣営はシンザンの調子が上向いてきたことを感じていたが、マスコミやファンには懐疑的な見解も多く、菊花賞ではセントライト記念と平場オープンを連勝していたダービー2着のウメノチカラに単勝1番人気を譲ることになった。

菊花賞は同年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬のカネケヤキが大逃げを打つダイナミックなレースとなったが、シンザンは最終コーナーを回るまで追い出しを待ち、満を持して直線で追い出されると豪快な伸びを見せてウメノチカラに2馬身半差をつけて快勝。1941年のセントライト以来となる史上2頭目、戦後初の三冠馬の座に輝いた。 シンザンは4歳になってから天皇賞(秋)、有馬記念を制して「五冠馬」と称されるようになった(※宝塚記念にも勝っているが、当時は格が足りないとして「冠」には加えられていない)。

なかでも伝説となっているのは、結果的にラストランとなった1965年の有馬記念(GⅠ、中山・芝2600m)でのアクロバティックな勝利である。

1960年代の中央競馬をリードしたトップジョッキーであり、「闘将」とも呼ばれた加賀武見は逃げ馬に乗るのを得意としていた。生憎の雨で極度に馬場状態が悪化した有馬記念で、加賀は逃げ馬のミハルカスで天皇賞(秋)でシンザンの3着に敗れていたが、引き続き手綱をとることが決まったとき、ある策略を思いついた。それは、逃げを打って最終コーナーを回ったら大外へ進路をとり、シンザンを馬場が悪い内を走らざるを得ないよう誘い込もうとしたのである。

加賀の奇策は成功するかに見えた。ミハルカスは最後の直線で大外へ進路をとり、そこへシンザンが迫ってきたからだ。しかし、栗田の起こしたトラブルが原因でシンザンの手綱をとることになった松本善登は、ミハルカスのさらに外、外ラチ沿いへと進路をとった。そのためテレビの画面では、シンザンの姿がラチ沿いまで埋まった群衆に隠れて見えなくなり、中継のアナウンサーは「シンザンが消えた!」と実況。しかし何秒か後にその姿が見えた瞬間、シンザンはすでにミハルカスを差し切って先頭に立っており、悠々と「五冠」目のゴールを駆け抜けていったのだった。
当時の生産地では、輸入種牡馬と比べて内国産種牡馬の評価は著しく低く、シンザンとて例外ではなかった。初年度は評価が高いとはいえない交配相手を40頭ほど集めるのがやっとだったが、2年目の産駒からシングンという重賞勝ち馬(金鯱賞、朝日チャレンジカップ)が出た。これをきっかけに種牡馬としてのシンザンが見直され、81年の菊花賞馬ミナガワマンナ、85年の皐月賞と菊花賞、87年の天皇賞(春)を制したミホシンザンを送り出し、のちの内国産種牡馬に活躍の場を与えるベースを作った。

種牡馬から退いた後も、種牡馬として繋養されていた北海道・浦河町の谷川牧場で余生を過ごし、1996年7月13日に老衰で没した。35歳102日を生き抜いての大往生で、それは当時の日本における軽種馬の最長寿記録だった。

能力の高さはもちろん、ビッグレースでの勝負強さからシンザンは別格の高い評価を受け、それは戦後の日本競馬における最高傑作にして、軽々には超えがたい巨大な目標として存在した。

「シンザンを超えろ」――。この言葉が長く生産者、厩舎関係者にとってのスローガンとして掲げられた。

武田文吾は1960年に皐月賞、日本ダービーを制した名馬コダマを育て上げており、コダマとシンザンを比べて評した、あまりに有名な言葉を最後に記しておきたい。

「コダマは剃刀(カミソリ)、シンザンは鉈(ナタ)の切れ味。ただし、シンザンの鉈はヒゲも剃れる鉈である」

(文中敬称略)

文●三好達彦

© 日本スポーツ企画出版社