「怪童」中西太氏、出雲に残るホームラン伝説 手掛かり探し真相を確かめてみた

 プロ野球西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)黄金時代の主力選手で、昨年5月11日に90歳で亡くなった中西太氏。本塁打王を5度獲得し、推定飛距離160メートル超のホームランを放ち、規格外の豪打で知られた。実は高校時代、出雲市であった招待試合に呼ばれ、特大本塁打を放った伝説がある。記録や当時を知る人をたどり、実相を調べた。

 中西氏は香川県出身。高松一高校時代から「怪童」と呼ばれ、甲子園で活躍した。1952年に西鉄に入り、三原脩監督の下、中軸として56年から3年連続の日本一を支えた。

 名コーチとしても知られ、若松勉氏(元ヤクルト監督)らを一流選手に育てオリックス時代はイチロー氏を指導した。WBCで侍ジャパンの監督を務め、世界一に輝いた栗山英樹氏も薫陶を受けた一人だ。

 現役時代を知らない出雲市出身の記者(41)は、父から「中西という大打者が来て、旧出雲市営球場(出雲市大津町)でものすごい本塁打を放った」との話を聞いた。

 昨年5月の訃報を受け、ゆかりのエピソードを紹介できないか調べてみたが、当時の本紙、本社にある出雲市関連の資料を見ても詳しい記録は見つからなかった。父に問い合わせても伝聞で真相はよく分からないと言う。

 中西氏は今で言えば、米大リーグで活躍する大谷翔平選手のような存在。世界と国内で活躍場所は違うが、当時は国内で、スポーツや娯楽と言えば野球の時代。スーパースターに違いなく、決して大げさな例えではない。その中西氏の記憶が伝わらないのは、もったいない。もやもやが募り、中西氏の一周忌を前に調べてみた。

 ■伝説の舞台を訪ねると

 伝説の舞台とされるのは旧出雲市営球場。現在は、くすのき広場という公園になっている。5月1日に訪ねると、閑静な住宅街の中に、緑の芝生が広がり、子どもたちの遊ぶ姿があった。清掃活動をしていたグループがあり、中西氏について聞いてみると、近くの川瀬嶋則さん(80)が公園の外を指さし「あの辺にホームランを打ったらしいよ」とあっさり答えてくれた。

 当時の球場はセンターが深く120メートル程度あったが、レフトは80メートル程度と狭かったらしい。右打者の中西氏の打球は、レフトフェンスはもとより、住宅街の屋根を越えた特大のホームランだったようだ。時は1951年。川瀬さんは7歳で、見に行った記憶はないというが、評判になっていたという。

 ちなみに、この球場ではオートレースやサーカスも開かれ、市民の娯楽の中心地だったようだ。「社会人野球も盛んで、週末ごとに試合があり、ボールボーイのアルバイトで稼いだもんよ」と、グループの別の男性が教えてくれた。

 中西氏が本塁打を打ったのは真実のようだが、記録がほしい。中西氏の自著「西鉄ライオンズ 最強の哲学」(ベースボール・マガジン新書、ベースボール・マガジン社発行)を取り寄せ、読んでみると、高校3年時の招待試合について記述があった。

 つづく

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