今くるよさんに「俺も紳助も頭が上がらない…」島田洋七が語る“東京進出”後押しした恩人秘話

後輩思いだった今くるよさん(C)日刊ゲンダイ

「俺も辛いけど、紳助も辛いと思いますよ」

5月27日に膵がんのため、大阪市内の病院で亡くなった「今いくよ・くるよ」の今くるよ(本名・酒井スエ子、享年76)さん。30日に大阪市内で営まれた通夜には、「西川のりお・上方よしお」、「ザ・ぼんち」、「ハイヒール」、桂文珍(75)、島田一の介(73)、宮川大助(74)、オール巨人(72)ら、延べ200人がくるよさんとの別れを惜しんだ。

くるよさんとの思い出を語ってくれた漫才コンビ「B&B」の島田洋七(74)。洋七は、女性漫才コンビのパイオニア的存在だった今いくよ・くるよの弟弟子にあたる。

「姉さんたちを初めて見たのは、俺がまだ『うめだ花月』で進行係をしていた頃です。今でも思い出すのが、一緒に食事に行くと必ずご馳走してくれたことです」

くるよさんは高校卒業後OLを経て、高校の同級生で同じソフトボール部の仲間だったいくよ(2015年5月28日逝去)さんと、1970年に夫婦漫才コンビ「島田洋之介・今喜多代」に弟子入り。71年にコンビを結成するも下積み時代が長く、「花王名人劇場」(関西テレビ)で日の目を見るまでに時間を要した。

「そのころ公演での姉さんたちの出番は最初のほうで、まだ笑いもぼちぼちという感じでしたが、女性コンビというのが珍しかったから、とにかく拍手が多かった。当時、若手の持ち時間は1組15分。客席から笑いが起こらないと舞台での時間がものすごい長く感じましたが、姉さんたちも『4カ所しかウケんかったな。しんどかったな』とよく話していましたね」

洋七はのちに、今いくよ・くるよと同じく、島田洋之介・今喜多代に弟子入りしている。

「1980年代の漫才ブームの中心にいたのが『ツービート』、『西川のりお・上方よしお』、『B&B』、『島田紳助・松本竜介』、それに『今いくよ・くるよ』でした。今いくよ・くるよ、B&B、弟弟子の紳助・竜介が同じ島田一門で、3組の漫才コンビがブレークした時、師匠はどや顔でした。ただ、女性芸人がたくさんいる今と違って男性中心の社会でしたから、姉さんたちが苦労してきたのを見てきました。女性同士ということもあって、下ネタやどついたりする漫才はやりづらく、華がある生き方や化粧の仕方などをネタにしていましたが、とにかく『ネタ作りが難しい』とこぼしていたものです」

「俺らが売れても、食事に行けば必ずご馳走してくれた」

洋七は師匠に弟子入りして6年目に、B&Bの東京進出を決意。師匠の前に今いくよ・くるよに相談し、「そういう大事なことは楽屋で話さんほうがええ、(師匠の)家まで行って話しい」とアドバイスされた。今いくよ・くるよの2人は師匠宅まで同行してくれ、許可を得た帰り道に「師匠に許可もらって良かったな。今日は驕ってあげるから何でも食べたい物を言うて」と、お好み焼きをご馳走になったという。

「俺らが売れても、食事に行けば必ずご馳走してくれました。師匠がよく弟子を連れて焼き肉屋でご馳走してくれるのを受け継いだんでしょうね。姉さんたちがまだ売れてない頃でも『飯でも食べ』と1000円のお小遣いをくれる。ちょっと忙しくなってくると、それが3000円、5000円と増えていきました。漫才ブームの頃は会うたびに1万円を手渡されました。俺も紳助も頭が上がりません」

多くの後輩たちの面倒を見てきたという「今いくよ・くるよ」の2人。

「島田一門だけでなく、当時、若手のハイヒールたち女性芸人を10人以上連れて、月に一度は食事会を開いていたようです」

くるよさんの最後の舞台になったのは、2022年4月2日に「なんばグランド花月」で行われた吉本興業創業110周年特別公演「伝説の1日」。車椅子で登場したくるよさんは黄色いド派手な衣装に身を包み、「どやさ!」のギャグで笑いを誘った。仲間やファンをはじめ、多くの人からから愛された芸人だったという。

(本多圭/芸能ジャーナリスト)

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