「お互い様」の精神(6月2日)

 朝の通勤時間を過ぎた頃、都市郊外を走る電車に乗り込んだ。座席はほぼ埋まっており、吊[つ]り革の空[す]いたところに体を滑り込ませて掴[つか]まった。

 隣の吊り革では女性が熱心に文庫本を読んでいる。

 近頃は、電車や乗り物の中で本を読む人の姿を滅[めっ]多[た]に見かけなくなった。

 ほとんどがスマホの画面をじっと見つめ、指先を動かしている。気がつくと、車両中の乗客全員が、手元のスマホを見ているといったことも珍しくない。

 ふと電車がゴトンと揺れ、文庫本を読んでいた女性の靴先が、私の靴にぶつかった。

 「あ、すいません、ごめんなさい」

 「いえいえ、大丈夫です」

 小声で言葉を交わし、お互いに軽く会釈をした後、なんとも懐かしい感覚を覚えた。

 そういえば、近頃は混み合った車両や駅の構内で、肩が当たったり、荷物がぶつかったりしても、言葉をかけられることが少なくなった。それどころか耳につけたイヤホンから聴こえる音に集中しているのか、他人の足を踏んだことにさえ気がつかないこともある。

 「混み合っているのだから仕方ない」なのか「少しくらいは平気平気」なのか、とにかく〝謝る〟言葉を聞くことは、悲しいかな滅多に無くなった。

 かつては、暮らしの中にたくさんのマナーがあり気遣いがあった。

 交通機関はもちろん、職場やご近所付き合い、そして親しい友人関係にもお互いの気配りがあった。それは特に「気を遣う」というわけでもなく、暮らしの中で、スムーズに気持ち良く円滑に人間関係や物事が進むための、当たり前の「お互い様」の精神だった。

 遠い昭和の時代、駅で友人と待ち合わせをすれば、遅れないようにとそれぞれが10分も15分も前に改札前に到着した。今の若い人たちは、遅れそうならばSNSで連絡を取りあい、「どうせスマホでゲームでもしてるだろう」と悪びれることなく平気で30分や、ひどい時は小一時間も待たせることもあるという。

 電車の車内でも、周囲に対してほとんど「我関せず」になってしまっている。先日も、隣に座った若い女性が、小さな鏡を手に、熱心かつ本格的にメイクを仕上げ、挙げ句の果てには何かを食べ始めたのには、驚くよりも呆[あき]れてしまった。

 或[あ]る説によると、この10年ほど、個人の生活空間と公的空間との境界線が曖昧になっていく傾向にあったところへ、〝他者と関わらない〟コロナ禍がさらに追い打ちをかけてそのボーダーレス化を加速させてしまったという。

 自分にとって必要な世界さえ身の回りに集めておければ、それ以外の社会や人には、興味も関心もないということなのだろうか。

 「すいません」「いいえ、大丈夫ですよ」そんな当たり前の言葉を自然に交わし合う習慣が、どうか遠い時代のものにならないよう、そして「お互い様」の気持ちを忘れることがないようにと願っている。

(宮田慶子 白河文化交流館コミネス館長)

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