現職の“裁判官”が語る…「法律と判例」があっても“生成AI”には裁判官が絶対に務まらない「決定的な理由」とは

裁判官の仕事に求められるものとは(metamorworks/PIXTA)

今年4月、現職の裁判官、しかも津地方裁判所民事部のトップの裁判長(部総括判事)が、国を相手に「違憲訴訟」を提起する意向を表明し、話題になっている。

竹内浩史判事(61)。元弁護士で市民オンブズマンを務めた経歴があり、弁護士会の推薦により40歳で裁判官に任官し、かつ、自らブログ「弁護士任官どどいつ集」で積極的に意見を発信する「異色の裁判官」である。

本連載では、竹内判事に、裁判官とはどのような職業なのか、裁判所という組織がどのような問題点を抱えているのか、といったことついて、自身の考え方や職業倫理、有名な事件の判決にかかわった経験等にも触れながら、ざっくばらんに語ってもらう。

第1回のテーマは、憲法が明文で裁判官に要求している「良心」とはどのようなものか。生成AIが目まぐるしい勢いで発達している今日だからこそ、裁判官の存在意義である「良心」の内実が問われるといえる。(全6回)

※この記事は竹内浩史判事の著書「『裁判官の良心』とはなにか」(弁護士会館ブックセンター出版部LABO刊)から一部抜粋・構成しています。

「上」ばかり見ている「ヒラメ裁判官」は“AI以下”

皆さんは、「ヒラメ裁判官」という言葉をどこかで聞いたことがありませんか。

ヒラメは、両目を頭部の左側に付けていて、海底で両目を上に向けて生活しています。「ヒラメ裁判官」とは、ヒラメのように上ばかり見ている裁判官を指します。

この言葉は、私が弁護士から裁判官に任官した当時の最高裁長官だった町田顯(あきら)さんが、2004年の新任判事補の任命式の訓示で、「『ヒラメ裁判官』は全く歓迎していない」と言ったことが広く報道されて有名になりました。

では、「ヒラメ裁判官」がなぜダメなのかという私なりの見解ですが、「ヒラメ裁判官」は、次のような思考回路で裁判をします。

まず、自分が担当する事案について、当事者の主張と証拠に基づいて事実認定をします。ここまでは変わりません。

問題はここからです。「ヒラメ裁判官」は、まず過去の類似事案の上級審の判例を検索して探します。うまく見つかったと思ったら、それと同じように判決して「一件落着」、一丁上がりとして、処理件数を稼ぎます。

その何がいけないのか?と思われるかも知れません。しかし、こんな仕事でいいのならば、何も難しい司法試験や司法修習を受ける必要はありません。今の生成AIの方が、よほど迅速かつ正確な判断ができるでしょう。裁判官という職業は、ほかの仕事よりも真っ先に必要なくなります。

それに、全く同じ事件は二つとないはずです。類似判例の中には、よく見ると似て非なる事案のものもしばしばありますし、そもそも、判例は時代遅れとなって変更される可能性もあります。判例に従ってばかりいると、特に重要事件ではこのような誤りが頻発します。

憲法が求める「良心」的裁判官

それでは、裁判官のあるべき姿とはどのようなものでしょうか。実は憲法76条3項が以下の通り定めています。

【憲法76条3項】
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」

この条文によれば、憲法は、裁判官に「良心」を要求しているということになります。

憲法は「ヒラメ裁判官」と異なる「良心的裁判官」にどういう仕事を期待しているのか、私の考えを分かりやすく、ハリウッドザコシショウさんのように誇張して開陳します。

事実認定までは「ヒラメ裁判官」と変わりません。同様に当事者の主張と証拠に基づいて事実認定をした上で、次のような順番で考えます。

①仮に法律がなかったとしたら、どっちを勝たせるべき事案か、「自分の良心」で考える。
②その結論を法律に基づいてうまく説明できるか考える。できるならばそれで判決を書く。
③念のために、自分の法律論に反するような最高裁判例がないかを確認する。

ここで初めて「上級審の判例」が出てくるのです。「ヒラメ裁判官」の思考回路とどう違うか、お分かりいただけましたでしょうか。

「ヒラメ裁判官」の第一の判断基準は「上級審の判例」であるのに対し、「良心的裁判官」が大切にするのは、まずは「自分の良心」なのです。

もしも、自分の結論が法律に基づいてうまく説明できない場合にも、さらに検討を続けます。

④正しいと思う結論をうまく説明できないような法律は憲法違反ではないかと検討する。
⑤自分の法律論が判例違反となる場合は、判例変更を求めるべきではないかと検討する。

ここまでやれば、自分の良心を最大限貫いた「良心的裁判官」と誉めてよいでしょう。

突飛なことを言っているように思われるかも知れませんが、ここで憲法76条3項をもう一度読み直して下さい。

「すべて裁判官は」そのようにせよと書いてあるのではありませんか。また、語順も「良心」が最初に置かれており、そのうえで「憲法及び法律にのみ拘束される」と書かれています。

裁判官が判断する際には、第一義的には「自己の良心」であって、法律はもとより、憲法でさえも「拘束」にすぎないのです。私は、文言と登場順番どおりの素直な解釈だと思います。

したがって、もしも憲法76条3項を分かりやすく書き換えるとすれば、むしろ、次のように書き換えるべきです。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行う。
ただし、この憲法及び法律にのみ拘束される。」

ここで「拘束」というのは、言い換えれば「縛り」という意味です。麻雀をする人は分かるでしょうが、麻雀には「リャンハン縛り」と言って、役が二つ以上ないと上がれない局面があります。

私が作った都々逸(どどいつ)に

「一度でいいから 見てみたいもの 裁判官の 賭け麻雀」

という自信作があるのですが、それはともかく、「縛り」というのはゲームのルール上の制約です。

裁判官の「良心」とは何か

それでは、裁判官の「良心」とは何か。

憲法76条3項の裁判官の「良心」という文言については、憲法学者の間でも長年論争が繰り広げられています。百家争鳴という感じですが、大雑把に分ければ、「主観的良心説」と「客観的良心説」の対立があります。

ところで、憲法にはもう一か所「良心」という文言があるのはご存知でしょうか。憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という規定です。

この条文でいう「良心」が、個々人それぞれの主観的なものであることは争いがありません。どこかの国のように、権力者が国民の心はこうあるべきだと勝手に決めて、押し付けた「良心」を指すものではないことが明らかです。

ところが、憲法76条3項の裁判官の「良心」については、なぜかこれと異なって、「客観的な良心」であると解釈するのが長年の多数説でした。その根拠としては、たとえば、「死刑廃止論者の裁判官が自己の良心に従って死刑判決を回避するのはおかしい」という例がよく挙げられました。

しかし、よくよく考えてみると、これは違うと思います。現に刑法に規定のある死刑を事案によっては適用しなければならないこと自体は、この「法律に拘束される」の方に含まれています。基本的に個々の裁判官の良心の範疇(はんちゅう)ではありません。

上述の「死刑廃止論者の裁判官」について言えば、むしろ、不運にも死刑事案を担当することになったら、次のように悩めばよいのです。

①自分としては、死刑をなるべく避けたいが、法律に基づいてその判断を正当化できるか。確かに刑法では複数の殺人や強盗殺人であっても無期懲役を選択することはできるけれど、これだけ凶悪な事件では死刑を選択すべきだという最高裁判例もあるから、なかなか通りそうにない。
②それならば、死刑を規定している現行刑法の規定を憲法違反とまでいえるか検討するか。過去に死刑を合憲とした最高裁判例はあるが、死刑廃止はもはや国際的な潮流だ。そろそろ判例変更を考えてもいいのではないか。
③しかし、死刑存置論は日本ではまだまだ少数派だ。時期尚早ではないか。選択が迫られる。

こうして悩んだ上で、結論と理由を決めればよいのです。

2023年のNHK大河ドラマは私の故郷の愛知県三河地方が生んだ英雄を描いた「どうする家康」でしたが、徳川家康が毎回、重大な局面で選択を迫られるというストーリーで展開していました。

死刑廃止論者の裁判官も同様に、このような感じで選択に悩むことになります。

そのような究極の事案は、民事裁判官である私が担当することはありません。しかし、少なからぬ民事事件では、どちらの結論でも判決が書けるということがあります。

その際に働かせる私の「良心」がどのようなものか、この機会に披露させていただきます。なお、ここでいう「良心」とは、「思想及び良心の自由」にいう「思想」とは一応区別されるものであって、「良識」、「道徳・倫理」、あるいは「信条」というべきものです。

私の良心は、第一に「正直」、第二に「誠実」、第三に「勤勉」です。いわゆるサイコパス、つまり「良心をもたない人」、あるいは「こまった人」ではなく、「まともな人」であれば、順番はともかくとして項目にはおおむね賛同してもらえると思います。なぜならば、「良心」とはまさに、「普通の人の良い心」だからです。

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