第一人者を変えた「デマ」 国の火山調査委員長の清水さん 大火砕流で刻んだ使命 長崎

ヘリコプターで溶岩ドームを観測後、報道陣の取材に応じる清水さん(中央)=島原市営野球場(1994年1月24日撮影)

 国の火山調査委員長で、九州大名誉教授の清水洋さん(67)は33年前、雲仙・普賢岳大火砕流の惨事に直面し、デマに右往左往する人々の姿を目の当たりにした。苦い経験をして胸に刻んだのは、科学的知見を分かりやすく、丁寧に社会へ伝える研究者の「使命」だった。
 雲仙・普賢岳が噴火した当時、長崎県島原市の九州大島原地震火山観測所の助手だった。人付き合いが苦手で「世間と距離を置き、ひたすら火山学を究めればよい」と考えていた。
 1991年6月3日。普賢岳山頂から約6キロ離れた中学校の屋上で、火砕流の噴煙が上がるのを目撃した。「何があったのか確かめなければ」と、観測用のビデオを回収するため北上木場農業研修所に急行。国道57号から山手に向かう道に入ろうとすると「ここから先は駄目!」と鬼気迫る形相の警察官に止められた。
 時間は午後4時半過ぎ。付近は暗く見通しが利かなかった。視界が開けてくると、山手の家が燃えているのが見えた。衣服が破れ、灰で真っ黒になった人が逃げてきた。
 学者として「火砕流」という現象は知っていたが、実際に目にしたのは初めてで、激しく気が動転した。「地震計のデータがある観測所に戻らねば」と思い直し、大急ぎで引き返した。研修所の周辺で消防団員や警察官、報道陣ら43人が犠牲になったと知ったのは、その後だった。
 それからは不眠不休でデータ解析に取り組んだ。異変が現れたのは大火砕流から9日後の12日。観測所のテレメーターが未明から、マグマや火山性のガスなどが急速にたまり山体が膨張している動きを示していた。
 「このままならば、かなり大きな噴火になる可能性がある」と関係機関に連絡した。結果的に、昼過ぎまでには噴気が出て“ガス抜き”された形になり、心配された「大噴火」は回避された。
 ところが「大噴火の可能性」の情報が漏れて独り歩きし、一部の報道陣が島原から撤退した。このため「島原半島が吹き飛ぶのでは」とのデマやうわさが流れ、避難勧告が出ていないのに、パニックに陥り逃げ出す住民も出た。
 混乱の中で島原市内の病院が患者を市外に避難させ、結果的に8人が転院先で亡くなった。「データが正しく伝わらないと悲劇を生む。研究が社会に与える影響の大きさを嫌というほど味わった」と振り返る。
 苦い経験が清水さんを変えた。持っている情報は「現時点では根拠が不十分」などと補足を付けた上で、火山の状況を包み隠さず発表するようにした。繰り返し丁寧に説明することが、情報を正しく伝えることになると実感した。
 2011年度からは小学生と保護者を対象に、災害に関する知識を学ぶ「島原防災塾」を島原市内で開いている。「火山は人の一生や世代を超えたスパンで活動する。地域で災害の記憶を継承していくことが大切」。国内火山学の第一人者は「世間」の中で活動を続けている。

© 株式会社長崎新聞社