森保ジャパンが成し遂げたスペイン、ドイツ撃破の裏の「超攻撃的」交代【意外と知らない「サッカーの選手交代」起源と進化と現在地】(3)

カタールW杯における積極的な選手交代で、歴史的な勝利を挙げた日本代表の森保一監督。代表撮影/雑誌協会・金子拓弥

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、0から最多7まで増えたもの。

■森保監督の采配で「超攻撃的チーム」へ

2022年ワールドカップ・カタール大会で、日本代表の森保監督は選手交代によって次々と攻撃のギアを上げ、ドイツとスペインにともに2-1で逆転勝ちするという快挙を成し遂げた。

ドイツ戦では、まずハーフタイムにDF冨安健洋を投入して、4バックから3バックに変更(この時点では5バック的だった)、守備を安定させる。そして、後半12分にDF長友佑都からMF三笘薫、MF久保建英からFW浅野拓磨の交代を行い、後半26分にはMF田中碧からMF堂安律、そして後半30分にはDF酒井宏樹からFW南野拓実へと、次々と選手交代を実行して超攻撃的なチームへと見事にシフトチェンジした。

南野の投入直後に堂安の同点ゴール、その8分後には浅野が抜け出して決勝ゴール。鮮やかな逆転劇にスタンドは熱狂に包まれたが、心配性の私は「この後はどう守るのか」と気になって、手放しでは喜べなかった。

ピッチ上で守備を得意とするのは、センターバックとして先発したDF吉田麻也とDF板倉滉のほか、交代で入った冨安と、ボランチのMF遠藤航の4人だけ。残りは交代の4人のほか、MF伊東純也とMF鎌田大地、攻撃を得意とする選手ばかりだったからだ。おまけに、この大会のアディショナルタイムのカウントは異常と言っていいほど長く、開幕してからこの試合までに10分を超える例が頻発していた。

当然のことながら、逆転されたドイツは猛攻に出た。交代選手も次々と投入した。しかし、日本の選手たちは全員が奮闘し、DFラインがしっかりと相手のロングボールに対処した。何よりも、「ウイングバック」としてプレーした伊東と三笘が意外なほどの守備力を見せて相手の突破を許さず、ついに「後半54分」まで耐え切って歴史的な勝利を得たのである。

■交代の「本来の意味」と「最古の記録」

しかし、交代が戦術的な目的で行われるという現象は、サッカーが誕生した頃からあったものではない。それどころか、サッカーという競技では、どんなことがあっても交代は認められていなかったのである。

「交代substitution」という言葉は、サッカーが始まった頃からあった。しかし、それは試合中の選手交代ではなく、予定していた選手が試合会場にこなかったときに代わりとするプレーヤーを意味していたのである。

今日的な意味での「交代」の最古の記録は、1875年、スコットランドで行われた「ランスロット」と「クロスヒル」というクラブ同士の親善試合である。ランスロットの選手がケガで動けなくなると、クロスヒルが新しい選手を入れてプレーすることを「許可した」というのである。公式戦においては、1885年11月7日、イングランドのFAカップ第1ラウンドの再試合において、ロックウッド・ブラザーズの選手が足を骨折し、交代選手を出したという記録がある。相手はノッツ・レンジャーズ。試合はレンジャーズが4-0で勝った。

「国際試合」では、1889年4月ウェールズのレックスハムで行われたウェールズ×スコットランドの前半20分、ウェールズのGKがアルフ・ピューからサミュエル・ギラムに代わるという交代があった。ウェールズの本来のGKはジム・トレイナーという選手だったが、試合会場に現れず、ウェールズ・チームは急きょギラムを呼んだのだが、彼が到着するまで地元のアマチュア選手であるピューがプレーしたのだ。

この試合は英国4協会の公式選手権の最終戦。スコットランドはゴールを破ることができず、0-0で引き分けたが、その前の2勝が生きて見事、優勝を飾った。

■イングランドでは「サッカーに交代なし」

イングランドでは「サッカーに交代なし」の思想が徹底しており、IFABもその意向を汲んでルール上では禁止されたままだった。しかし、20世紀の前半には、サッカーは世界各地に広まって、1930年代には次々とプロ化されるなど盛んになっていた。そして欧州大陸では、ケガ人が出た場合には交代を認めるべきという考え方が優勢になっていた。

ワールドカップでは、1954年スイス大会の予選で交代が行われている。1953年10月11日にシュツットガルトで行われた西ドイツ×ザールラント。西ドイツの左ウイング、リヒャルト・ゴッティンガーにとっては代表デビュー戦だったが前半に負傷、38分にホルスト・エッケルとの交代を余儀なくされた。

ザールラントは、現在ではザールブリュッケンを中心とするドイツ西部の州になっているが、第二次世界大戦後、この地域を西ドイツに含めることにフランスが反対、1957年元日に西ドイツに返還されるまで、フランスの保護領になっていた。1950年にはFIFAに加盟、「ザールラント代表」は1956年6月まで19試合を戦い、6勝3分け10敗の成績を残している。

1954年ワールドカップの予選ではノルウェー、西ドイツと同組になり、初戦、アウェーでノルウェーに3-2で勝って驚かせたが、この西ドイツ戦を0-3で落としてグループ2位にとどまり、ワールドカップ出場の唯一のチャンスを逃した。この当時の監督は、西ドイツ代表の名将ゼップ・ヘルベルガーの愛弟子で、後にヘルベルガーを継いで西ドイツ代表監督となり、1974年ワールドカップで優勝に導くことになるヘルムート・シェーンである。当時39歳だった。

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