ロシアによる侵攻を「人々が忘れ始めている」 ウクライナのテニス選手が母国の窮状を受けて今思うこと<SMASH>

テニスと出会った日々のことは、「“昨日の事のよう”とまでは言わないけれど、とてもよく覚えているの」と、彼女は小さく微笑んだ。

テニスプレーヤー、ナディヤ・キチェノクは、ウクライナ出身の31歳。単最高100位、そしてダブルスは29位。双子の姉妹、リュドミラもテニスプレーヤーで、2015年の深圳オープンでは“史上2組目の、WTAツアーでダブルス優勝した双子ペア”となった。最近では加藤未唯と組み、全仏オープンではベスト8入り。これは彼女にとって、グランドスラムでの最高戦績である。

ウクライナ東部地域の町、ドニプロに生まれた彼女が、最初に親しんだスポーツは、ダンスだったという。母親の熱心な勧めもあり、姉妹でスクールに通った幼少期。ただ、「まるで運動神経がなかったの」と、彼女は恥ずかしそうに笑った。

「母親はそれでも私たちスクールに連れていってくれたけれど、正直、楽しくはなかった」

そう打ち明けるキチェノクが、テニスに出会ったのは、初夏に家族で過ごした休暇先でのこと。

「ウクライナ南部……正確にはクリミアに、家族みんなで旅行に行ったんです。そこにはテニスコートがあったので、父親は友人と一緒にプレーするようになった。私たちも、最初は一緒に行って見ていただけだったけれど、そのうち2人でラケットを手にして、壁打ちを始めたんです。そしたらもう、楽しくて!」
それが、「テニスに恋に落ちた」瞬間だったと、彼女は少女時代を振り返る。「特に楽しかったのが、姉妹で対戦するようになってから。それ以来、私たちはずーっと2人でテニスをしてきたんです」

バケーションが終りドニプロに戻った後も、2人は、テニスがやりたいと親に訴えた。幸運だったのは近くにテニススクールがあり、選手経験のある優れたコーチがいたこと。

「彼女の名前はイリーナと言って、今も故郷で、ジュニアたちのコーチをしているんですよ」

親愛の情を示すコーチの元で、2人は本格的にテニスに打ち込み始めた。

その始まりの日は、2人が何歳の時だったのだろう?

そう問うと、「ちょうど8歳になる頃。旅行に行ったのが5月で、その年の7月に私たちは8歳になったから」と、直ぐに答えが返ってきた。

ずいぶんと具体的に覚えているんですね……と、こちらが驚くと、「日付まで覚えているわ! 特別な日だもの」と笑う。23年前、家族で過ごした初夏の日々が、いかに大切な思い出か伝わってくる笑顔。温暖な気候のクリミアが、まだウクライナの人々にとって、人気の保養地だった頃の出来事だった。クリミア危機により、ウクライナからの渡航が重く規制されるようになったのは、それから13年の後である。 ウクライナで4番目の町に生まれ育った2人は、成長し、プロとして活動するようになり、家族も首都キーフに移った。

そして、2年前――。彼女にとって、「人生で最悪な出来事」が起きた。

「ロシア侵攻があった前後のことは、昨日のことのように覚えています」

そう言い彼女は、声のトーンをすっと沈める。

「侵攻が起きる前から、予感はしていました。プーチンの『ウクライナはロシアの一部だ』発言により緊張が高まっていたし、国境封鎖になってしまうのではと心配もしていました。とはいえ、ここまでの侵略や、本格的な戦争が起こると思っていた人は、多くなかったように思います。ただ、出入国が難しくなることは十分に考えられました」

2022年2月中旬にドーハの大会に出ていたキチェノクは、敗戦後に帰国。次の出場大会は、3月上旬に米国カリフォルニア州開催のBNPパリバ・オープンで、そこに合わせ既に航空券も購入していた。

だが国境封鎖等を恐れ、急きょ、渡米を早める。
「航空券も買い替え、予定より早くアメリカに行くことにしました。ただリュドミラ(双子の姉妹)は、エレナ・オスタペンコ(ラトビア/11位)のコーチである夫を待ち、ぎりぎりまで中東にいたんです。彼女がウクライナに戻ったのは、2月22日。私は『早く行かないと、大変なことになるかもよ』と言ったのですが、彼女は『今帰ってきたばっかりなのよ? ちょっとは休ませてよ』と言うんです。のんきだなと笑ってしまいましたが、同時に、本当に心配でもありました。

結局、私は23日にウクライナを出発して、アメリカに着いたのが、ウクライナ時間の24日の朝。そして……まさにその頃、ロシアからのロケットミサイルによる、砲撃が始まったんです。

私は、安全でした。もうアメリカにいたのだから。でもあの時の感情は、恐怖は、決して……決して、生涯忘れることはありません」

その時にキーフには、彼女の父親、母親、そしてリュドミラもいた。幸いにもリュドミラは、その数日後にはアメリカに向け経つことができたが、両親をはじめとする家族は、その後しばらくキーフに留まっていたという。

一方のキチェノクは、知人を頼ってしばらく米国フロリダ州のマイアミに留まり、現在はスロバキアを拠点としている。ただ今でも、叔父やいとこなど親族の多くは、ウクライナに居を構えたままだ。「今、何より怖く感じるのは……」と切り出し、彼女は続ける。

「人々が、ウクライナのことを忘れ始めているということです。今やウクライナのニュースは、世界のトップニュースではありません。私は、アメリカやヨーロッパなど海外の多くのニュース媒体も見るのですが、ウクライナの扱いはどんどん小さくなっているのを実感しています。ですが、状況は何も改善されていません。今でもミサイル攻撃により、ウクライナの人々は命を落としているんです。

そのなかで、先日、アメリカがウクライナへの追加支援を発表してくれたのは、うれしいニュースでした。防空用ミサイルも配備されるという話しもあるので、これにより事態が改善してくれればと思っています」
「人生で最悪な日」や母国の窮状を語る彼女の口調は、同胞のマルタ・コスチュク(20位)らに比べると冷静で、特定の誰かを糾弾するような激しさはない。

ただ、初めてラケットを手にした時の興奮を、姉妹で競う喜びを、そして、休暇で過ごしたクリミアでの日々を、情景が浮かぶようにビビッドに回想する彼女の言葉には、育った土地や家族への郷愁と愛情が、温かく灯っていた。

そしてもちろん、「未だ見えない」と言っていた侵攻の終わりが、一日も早く訪れることへの、切なる願いも――。

現地取材・文●内田暁

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