【虎に翼】腐れ縁のような桂場(松山ケンイチ)の“顔芸”の強さもあいまって、「桂場がいるなら大丈夫」という安心感を覚える

1日の楽しみは、朝ドラから! 数々のドラマコラム執筆を手がけている、エンタメライター田幸和歌子さんに、NHK連続テレビ小説、通称朝ドラの楽しみ方を毎週、語っていただきます。困難な時代に立ち向かう法曹たちの姿を描く「虎に翼」で、より深く、朝ドラの世界へ!
※ネタバレにご注意ください

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伊藤沙莉主演のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)『虎に翼』の第10週「女の知恵は鼻の先?」が放送された。

優三の死と向き合い、新憲法に希望を見出し、再び法曹界に舞い戻る決意を固めた寅子。心機一転、ここから寅子反撃のターン! となるのだろうか。

昭和22(1947)年。寅子がまず門を叩いたのは司法省が仮庁舎として使用する法曹会館。アポ無しで困っているところに颯爽と笑顔で登場したのが「ライアン」こと久藤頼安(沢村一樹)だ。アメリカかぶれで、初対面の寅子の姓「佐田」を文字って「サディー」と呼んだりするような、今までいなかったタイプの濃い目のキャラだ。

ライアンに導かれた先の人事課にいたのは桂場(松山ケンイチ)だった。節目節目で立ちはだかったりぶつかったりし、母のはる(石田ゆり子)との口論は今も記憶に残るシーンの上位ではなかろうか。その一方で俯瞰の視点で寅子ら女性の法曹界進出を見守っているような存在でもある。

それでいて桂場の〝顔芸〟の強さも相まって、ぶつかり合いもピリピリせず、どちらかといえば笑いの方向に着地させてくれる。そんなどこか腐れ縁のような描かれ方をする桂場の存在によって「桂場がいるなら大丈夫」という安心感すら覚えさせてくれる。この時点では女性は裁判官になることはできないが、まずはライアンの部署、司法省の民法調査室で働くこととなる。

ライアンの陽気なキャラ、桂場、さらに司法省にいたのが、学生時代に何度も女子部の学生と喧嘩し、よね(土居志央梨)に股間を蹴られた男、小橋(名村辰)だ。その特徴的なはねた前髪を細かなカット割りで強調したりアップにしたりと、笑いの要素を強調してくる。再登場キャラの顔ぶれとライアン、つらい展開が続いたこのドラマも、コメディ的要素を含めて、ある意味で「朝ドラっぽい」明るい流れになっていくのだろうか。と思いきや、やはり一筋縄ではいかなかった。

寅子が司法省で働くことは、決して本意ではない。さらに、一度この道を自らの手で捨ててしまっているという負い目も寅子にはある。戦争は終わり、新しい憲法もでき、新しい自由な日本になったはずである。しかし、寅子を取り巻く状況はほとんど変わらなかった。

相変わらず不自由な環境、そんななかでやはり家族を支えなければならない責任感もあり、なんとかうまく働かなければと、何かを閉じ込めて働く。そんな姿に、ライアンには、
「君は思ったより謙虚なんだね」
と、思っていたイメージと違うと指摘され、桂場に社交辞令のようなお礼を言えば、
「君もそういう薄っぺらなことを言うのだな」
と失望混じりに言われる。そう、ここでの寅子の立ち振る舞いこそ、寅子が第1話から疑問を感じていた「スンッ」だった。

あれほど疑問に感じていた「スンッ」の側に、自分がいたのである。
「だめだ……どうしてもスンッてなる……」
寅子が受け答えするたび、尾野真千子のナレーションで何度も「スンッ」と重ねられる。

わかっていても本来の寅子はなかなか表に出すことができない。小橋にすら、「大人になったなって」とイジられ、かつてのお前ならすぐ「はて?」「はて?」と噛み付いていたと指摘される始末。「大人になる」というのはそういうことなのだろうか。おそらく違う。

「僕の大好きな、あの何かに無我夢中になってるときのトラちゃんの顔をして、何かをがんばってくれること」
思い出の中の優三が語りかける。そして、偶然再会した花岡(岩田剛典)と弁当を食べながら交わした会話も、懐かしさとともに、それぞれの境遇や過ぎた時間を実感させる。

そんななか現れたのは恩師の穂高(小林薫)だった。かつて、寅子たち女性の活動をいつか石を穿つための水滴のひとつとし、今はまだ無理だがいつかの未来ならという視点からの物言いによって、寅子の気持ちを折った人物でもある。穂高は、以前から新しい世の中に向けての進歩的なものの見方をする一方で、優しい。過去に寅子の気持ちを折ったのも、その優しさゆえのもので、悪意などどこにも存在しなかったことは明白だ。

穂高は、寅子の父や夫が亡くなったことを知り、「君をこの道に引きずり込み、不幸にしてしまった」と頭を下げる。不幸とは? おそらく寅子は法を学んできたうえで、それを不幸ととらえたことは一度もないだろう。しかし穂高にとってはずっと背負ってきた罪悪感であり、解放させてあげたいという思いがある。

穂高は寅子に息子の家庭教師の職をすすめる。穂高にとっては間違いなく善意だ。しかし、罪悪感と責任感が、法の道から寅子を、女性たちを遠ざける。これは、穂高の「スンッ」である。

「はて?」「はて?」
もちろん穂高の言葉は真っ向から反論するようなものではないが、女性は弱いものであるという意識から出たものであることは感じ取れる。

「スンッ」と「はて?」、序盤から提示されてきた概念に再び立ち戻る。戦争は何をもたらしたのか、GHQによる政策で変わらないものもたくさんある、そういったこの時点での「現実」を、周囲の軽い失望、そして善意という形でズブリと差し込まれた寅子は、「スンッ」を理解したことで「らしさ」を取り戻すことができるのだった。

そんな最中に告げられた、花岡の死。寅子が取り戻した「はて?」は、さらなる地獄を突き進む。


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