酒乱で暴力、嫌いだったけど… 「ペコロスの母-」作者が語る父 長崎原爆後も抱えた「苦しみ」

いつも空から見守ってくれている父と母=イラスト・岡野雄一さん

 映画にもなった「ペコロスの母に会いに行く」で知られる漫画家、岡野雄一さん(74)=長崎市在住=は古い写真を整理していて、亡き父覚(さとる)さんが若き日に家族と写った1枚を見つけた。真面目でおとなしそうな風貌だが、酒癖が悪く、酔うと荒れ、岡野さんの母に暴力を振るったこともしばしば。「10代のころは父が嫌いでした。でもね…」。この写真の撮影前後に相次いだ悲しい出来事が覚さんを長く苦しめ、酒に向かわせたのではないかという。16日は父の日。「ペコロスの父」って、どんな人だったのだろう。
 認知症の母の介護や懐かしい昭和時代の日常をユーモラスにつづった岡野さんの作品。そこに登場する覚さんは、酒を飲んで帰宅途中、電柱のたもとで寝込む。酔って海に落ち、もらったばかりの給料を全てなくす。誰かに追われる幻覚に取りつかれ、逃げ回る-。そうした失敗の数々を、岡野さんはギャグに昇華して描いてきた。
 ある日、両親を知る近所の女性から、こう言われた。「ひどいアルコール依存症のように描いているけれど、あの時代の人たちは戦争や原爆に遭い、大変な思いを抱えていたのよ」
 覚さんは被爆者だった。息子の岡野さんに面と向かって体験を話したことはなかったが、ふとした時の言葉や残された手記によると、あの日は三菱長崎造船所で作業中だった。ガラスの破片を浴びたが、大けがは免れた。弟は学徒動員先から帰ってきた。だが妹は爆心地付近の工場から帰らず、弟と探し歩き諫早の救護所でようやく見つけた。半身にやけどを負い、看病のかいなく息を引き取った。
 見つかった写真が撮影されたのは、それから1年ほどたった1946年ごろ。神妙に写る人たちの表情は、戦争と原爆を生き延びて、どこかほっとしているようにも見える。
 けれども、平穏は長く続かなかった。
 「実は、父の左前に写っているのは父の最初の妻です」。この写真からまもなく、体調を崩して急死した。前後して、妻との間に授かった幼子も亡くなった。

岡野さんの父、覚さん(後列右から2人目)の家族写真。覚さんの左前が最初の妻。後方は長崎医科大付属医院(現・長崎大学病院)、1946年ごろの撮影(岡野さん提供)

 「2人とも原爆症だったそうです」と、岡野さん。「父は妻子を失ってどん底まで落ち込み、酒に手を出さずにはいられなかったでしょう」
 心配した周囲の勧めで再婚し、岡野さんが生まれた。だが、その後も酒乱は収まらなかった。岡野さんが高校生のころ、酔って包丁を振り回す覚さんを羽交い締めにして止めたこともあった。「一緒に暮らしていては、いつか自分も父のようになるのでは」と怖くなり、20歳で長崎を出た。

父の思い出を語る岡野雄一さん=長崎市桜町

 そんな覚さんだったが、60歳のころに健康上の理由からドクターストップがかかり、酒をスッパリとやめた。気性は穏やかになり、孫(長崎に戻った岡野さんの息子)をかわいがった。酒とともにたしなんできた短歌に、2000年に80歳で亡くなるまで打ち込んだ。遺歌集を編集した岡野さんは、家族を思って詠んだ短歌がたくさんあることに気づいた。

 「心の弱さは、繊細さと純粋さでもあったのでしょう。昔は嫌いだった父が、好きになりました」
 岡野さんが近ごろ描く覚さんは、背広に帽子、ステッキ姿で、妻を気遣う好々爺(こうこうや)ばかりだ。

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