「SNSは誰に見られているか分からない」 フォロワー22万人の「ジブ殿」がトークショー 三成のエピソード絡め、現代に通じる教訓も

石田三成と真田信之の関係について紹介したジブ殿

 戦国武将の石田三成に扮した発信が人気で、X(旧ツイッター)で約22万人のフォロワーがいる「石田三成@ZIBU」さん(@zibumitunari、ジブ殿)が15日、群馬県前橋市でトークショーを開いた。群馬戦国御城印サミット(同事務局主催)のステージイベントの一環で、約100人がユーモアある歴史トークに聞き入った。

 テーマは「ズッ友真田信之との絆~皆で三成の手紙を読もう~」。沼田を治めた信之と三成の関係をひもとき、三成の手紙から見るコミュニケーションの手法を説いた。

 ジブ殿は、豊臣政権下で大名との交渉役を数多く担ったのが三成だったと説明。確認されているだけで500通の書状があり、その中で最も多く残っていたのが信之との書状だったとした。

 織田秀信が草津温泉に行く際、三成から真田家に案内を依頼する書状が残っていることから、三成と信之の良好な関係は多くの武将にも知られていたとされる。また、長文のイメージが強い三成だが、「宿で待っているから」という短文の書状も残っており、短くても返事を返すことが大切と現代にも通じる教訓を語った。

 一方で、 「家康が10人いても大丈夫」などと豪語した書状が輸送過程で浅野家に奪われていたとのエピソードから「SNSは誰に見られるか分からない。特にピンチの時は注意を」とも呼びかけて笑いを誘った。

 三成の最大の誤算は、関ケ原の合戦で信之が敵対する東軍に転じ、上杉との連携が取れなかったこと。ジブ殿は「三成が(会津の)上杉と連携するには沼田を経由しなければならなかった」とし、合戦直前には真田家に「飛脚を必ず沼田越しに会津まで送ってほしい」との書状を送っていたほど、沼田を治める信之の存在は重要だったと推測。「沼田は天下分け目(の関ケ原)に関わりが無いようで、とても関わっていた」と強調した。関ケ原で敗れた後、三成が沼田市の正行院に落ち延びたとの生存伝承も紹介した。

 ジブ殿と、史実の三成の両方のファンという高校2年の女子生徒(17)=京都府=は「三成が本当に言った言葉を実感してより理解を深められた。『誰に見られているか分からない』はSNSにも通じていて気を付けたい」と話した。

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