石蔵は焼夷弾の猛火に包まれた。力の限り打ち鳴らされた半鐘は孫に伝わる…「戦争はむごい」。赤黒く焼けた石塀は今も、物言わず語る〈鹿児島大空襲79年〉#語り継ぐ爪痕

焼夷弾による火災で、赤黒く焼けた石を積んだ塀が戦禍の記憶を伝える。空襲の夜に打ち鳴らされた消防団の半鐘は、望楼の焼け跡で見つかった=鹿児島市上荒田町のみずほ温泉

 高層ビルが周囲に立ち並ぶ「みずほ温泉」(鹿児島市上荒田町)の駐車場に、切り石が積まれた塀がある。赤黒く変色しているのは、鹿児島の街を焼き尽くした大空襲で炎を受けた跡だ。「石がこんな状態になるのだから、生身の人間はひとたまりもない。戦争はむごい」。温泉を営む久保ヒロ子さん(91)は眉をひそめる。

 義父の久保本吉さん(故人)は当時、上荒田消防分団長だった。1945年6月17日深夜、敵機の襲来を知ると、近くの望楼に急ぎ駆け上り、力の限り金づちで半鐘を打ち鳴らした。大編隊がばらまく無数の焼夷(しょうい)弾で辺り一面火の海になり、自宅も全焼。望楼の焼け跡で、本吉さんはひび割れた鐘を見つけた。高さ65センチの“空襲の形見”。今は孫の誠さん(66)に伝わる。

 焼けた石蔵を昭和40年代に取り壊す際、一部の石を空襲の記憶として塀に使った。火を受けた影響か、もろくなった赤黒い表面がはがれ落ちることも多いという。「知らない人は汚い石としか思わないかもしれない。しかし戦争が起きると、この石のようになると知らしめるために残していきたい」。ヒロ子さんの思いだ。

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 2000人を超える死者を出したとされる鹿児島大空襲から17日で79年。見渡す限りの焦土となった古里の記憶は、時代の流れと共に薄れつつある。高層ビルが立ち並び、都市へと生まれ変わった街を歩き、今なお残る空襲の爪痕を探した。

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 鹿児島市街地を焼け野原にした1945年6月17日の鹿児島大空襲から間もなく79年を迎えます。南日本新聞は、同年3月から8月まで続いた鹿児島市への空襲を後世に語り継ぐため、空襲の傷痕が残る建物や資料を写真で紹介する「鹿児島市空襲 語り継ぐ爪痕」を随時掲載します。

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※2024年6月16日付紙面掲載

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